[覚書6]
良く知られているように、Wikipediaの正確性は執筆に参加する人の数や姿勢に依存する。記事の正確性を確保するためには、多くの関与者が資料を持ち寄り、客観的なデータ評価に基づいて内容を検討することが望まれる。「ハンス・ベルメール - Wikipedia」の内容は執筆者の努力により着実に充実してきているが、現時点でもいくつかの誤りが修正されずに残っている。さらには、最近ではこれらの誤りを含む文章が他のサイトで引用される例も散見される。そこで、本稿では記事の改善を望みつつ、これらの問題点について検討してみたい。
以下のリスト1〜3は、「ハンス・ベルメール - Wikipedia」(2009-2-21時点)で見つかった誤りを含んだ文章を纏めている。
1934年、少女の関節人形の白黒写真10枚を収めた『人形』(Die Puppe)をドイツで自費出版する。その写真は、初めて作った人形を背景の前に置き、活人画のシリーズとして撮影したものであった。
1933年 ナチスによる政権掌握。抗議のため社会貢献としての職業を放棄。フリーのアーティストとなる。最初の人形制作に着手。皮膚が破れ、もとの木枠をむき出しにした状態の人形であった。この時点ではまだ球体関節を持った人形は制作されていない。
1934年 写真集『人形』を自費出版で刊行。アンドレ・ブルトンらパリのシュルレアリストの賞賛を受け、シュルレアリスム機関誌『ミノトール』の表紙を飾る。
ベルメールは、第二の人形を室内、階段、森などの様々な場所で撮影し、第二写真集として纏めた。このような表現を「活人画」的と評するのであれば、(的確かどうかはともかく)理解できないわけではない。しかし第一写真集に関しては「活人画」という規定は当てはまらない。
このことは「ミノトール」第6号に掲載された写真からも確認できる(下図および覚書5参照)。上記リスト2の文章は、制作初期の写真を念頭に置きながら書かれたものと推測されるが、そのような執筆意図に関わりなく、客観的には第一の人形総体についての説明として機能しており、したがって誤りである。なお、第二の人形の特徴は腹部球体を採用した点にある。

ハンス・ベルメールの作品が初めて「ミノトール」誌に掲載されたのは1934年12月に刊行された第6号である(30−31頁の"Poupée, variations sur le montage d'une mineure articulée" )。これ以降も、彼の作品や文章が掲載されたことはあるが、ベルメールの作品が「ミノトール」の表紙として採用された事は無い。以下に、「ミノトール」各号の表紙の作者を示す。
| 号 | 刊行年月 | 表紙作者 |
|---|---|---|
| 創刊号 | 1933.6 | パブロ・ピカソ (Pablo Picasso) |
| 第2号 | 1933.6 | ガストン−ルイ・ルー (Gaston-Louis Roux) |
| 第3/4号合併号 | 1933.12 | アンドレ・ドラン (Andre Derain) |
| 第5号 | 1934.5 | フランシスコ・ボレス (Francisco Bores) |
| 第6号 | 1934.12 | マルセル・デュシャン (Marcel Duchamp) |
| 第7号 | 1935.6 | ジョアン・ミロ (Joan Miro) |
| 第8号 | 1936.6 | サルバドール・ダリ (Salvador Dali) |
| 第9号 | 1936.10 | アンリ・マティス (Henri Matisse) |
| 第10号 | 1937冬 | ルネ・マグリット (Rene Magritte) |
| 第11号 | 1938春 | マックス・エルンスト (Max Ernst) |
| 第12/13号合併号 | 1939.5 | アンドレ・マッソン (Andre Masson) |
※刊行年月のデータは、文献同士で食い違っている部分があるため、下記の文献1)〜7)を突き合わせて最も確からしいと判断したデータを記載した。
関節人形の制作にあたっては、人体を変形させた形態と型破りなフォルムにあらわれているように、当時ドイツで盛んだった「健全で優生なるアーリア民族」を象徴する行き過ぎた健康志向を批判したものである。
私見では、この主張が誤りであるとは言えないが、ベルメールの意図を余りにも矮小化しているように思われる。この事を確認するために、ベルメールが最初の人形の制作を決意した1933年頃のドイツの状況を眺めてみよう。下の表から分かるように、1930年代初頭からナチスの勢力の拡大とともに国粋主義的な近代美術攻撃の策動が勢いを強め、1933年1月のナチスの政権獲得を契機に、国家権力による全面的な弾圧へと拡大していく。左翼的な言論人や芸術家は次々と亡命を余儀なくされ、ベルメールと親交のあったジョージ・グロス(ゲオルグ・グロッス)やベルメールが大学中退後に勤めたマリク書店のオーナーであったヴィーラント・ヘルツフェルデもそれぞれアメリカ、プラハに亡命した。また、近代美術の側に立っていた大学教授や美術館の館長・館員らは次々と解雇された。ベルメールが見ていたのはそのような政治的文化的状況だった。自らの職業を放棄して、あのような挑発的な作品を制作し、パリのシュルレアリストグループと接触する...というような一連の行動が彼自身をどの様な状況に置くことになるか、彼には明確に予測できたはずである。すなわち、彼にとって人形制作は、<健全な芸術>なるスローガンを掲げながら個人の自由な精神活動を強権的に抑圧するナチスの芸術文化政策に対する全面的な対決行動であったと言える。
| 年 | ナチス芸術文化政策を巡る動静 | ベルメールの動向 |
|---|---|---|
| 1925 | ・アドルフ・ヒトラー『我が闘争(Mein Kampf)』第1巻("Eine Abrechnung")。 | |
| 1926 | ・『我が闘争』第2巻("Die Nationalsozialistische Bewegung")。 | ・ベルリン郊外のカールスホルストにデザイン事務所を開く。 |
| 1927 |
・国粋主義的な「ドイツ文化のための闘争同盟」が雑誌「ドイツ芸術通信」を発刊。 |
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| 1928 |
・F.K.ギュンター『芸術と人種』。 |
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| 1930 |
・チューリンゲン州で右翼政権成立。内務大臣・国民教育大臣に就任したナチスのヴィルヘルム・フリックは、反動的な文化政策を開始し、大学からバウハウス色の一掃を図る。 ・ワイマール城内美術館の展示室からカンディンスキー、ノルデ、ココシュカなどの作品が撤去される。 ・ローゼンベルク一派のシュルツェ=ナウムブルクワイマールが建築大学の学長に就任し、バウハウスへの攻撃を開始。 ・バウハウス校長ハンネス・マイヤーが共産主義者という理由で解任される。 ・近代美術作品を購入したザクセン・ツヴィッカウの美術館長が解雇される。 |
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| 1931 | ・デッサウ市議会、ナチスによるバウハウス解体の動議を可決。(バウハウスは私立の施設としてベルリンに移る。) | |
| 1933 |
・1月、ナチスがドイツの政権を獲得。ヴィルヘルム・フリックは内務大臣に就任。 ・ジョージ・グロス、アメリカに亡命。 ・ナチス政権により全国造形美術院(Reichskulturkammer)が創設。 ・バーデン分離派展の開催が中止に追い込まれる、その一方で、前衛芸術を誹謗する目的で『1918年から1933年までの政府公許芸術』展が開催される。後、諸都市で同様の展覧会が開催。 ・マンハイム美術館長グスタフ・ハルトラウプ解職。近代美術を擁護していたベルリンのナショナル・ギャラリーの館長ルートヴィヒ・ユスティらが解雇される。 ・マックス・ベックマン、フランクフルト美術工芸大学を解雇。オットー・ディックス、ドレスデン美術アカデミー教授職を解雇。パウル・クレー、デュッセルドルフ美術アカデミー教授職を解雇され、ベルンに亡命。オスカー・ココシュカ、プラハに亡命。 ・ブレヒト、フランスに亡命。「労働者グラフ新聞」編集部、プラハに亡命。ヴィーラント・ヘルツフェルデ(マリク書店主)、プラハに亡命。クラウス・マン、パリに亡命。フリッツ・ラング、パリに亡命。 ・ジョージ・グロス、市民権剥奪。 ・突撃隊とプロイセン警察により、ベルリンのバウハウスが占拠され強制的に解散される。 ・ベルリンのオペラ広場で、「非ドイツ的図書」の焚書。 ・オットー・ディックス、プロイセン芸術院から排除される。 ・ナチス側の美術誌「国民の芸術」創刊。 ・ワシリー・カンディンスキー、パリに亡命。 |
・年末、最初の人形(First Doll)の制作に着手する。 |
| 1934 |
・フォルクヴァング美術館館長エルンスト・ゴーゼブルフ解任。 ・アナーキズム作家エーリッヒ・ミューザム、強制収容所で虐殺される。 |
・第一写真集"Die Puppe"(『人形』)を自費出版。 ・第一の人形の写真がパリのシュルレアリストたちに紹介され、熱狂的な支持を得る。「ミノトール」第6号に人形の写真18葉が掲載。 |
| 1935 | ・ドレスデンで「退廃芸術展」が開催され、全国を巡回。(ミュンヘンの退廃芸術展に先立つプレ退廃芸術展) | ・パリに滞在しシュルレアリスト・グループと交流する。2月13日から開催されたシュルレアリスム・グループの絵画展(カトル・シュマン画廊)にデッサンを出品。 ・ポール・エリュアールの詩「アップリケ」が、ベルメールとマン・レイの写真を添えて「ミノトール」第7号に掲載される。 ・腹部球体を持った関節人形(Second Doll)を制作。 |
| 1936 |
・ベルリンオリンピック(8月)。 ・表現主義作家らの展示を続けていたベルリンのナショナル・ギャラリー閉鎖。 ・アドルフ・ツィーグラーが帝国芸術院総裁に就任。国内の公立美術館からの美術品押収を開始。 ・ゲッベルス、「芸術批評の禁止」令。 |
・ロベール・ヴァランセの訳による『人形』仏語版"La Poupée"をGLMより刊行。 |
| 1937 |
・ミュンヘンで「退廃芸術展」と「大ドイツ芸術展」。 ・マックス・ベックマン、アムステルダムに逃亡。 |
・オブジェ「恩寵の状態にある機関銃」(「恩寵に浴した機関銃」)を制作。 |
| 1938 |
・デュッセルドルフで「退廃音楽展」が開催される。 ・退廃芸術没収法。 ・エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー、スイスで自殺。 |
・妻マルガレーテが結核で死去。ナチスの脅威を避けてベルリンからパリに移る。 |
「ハンス・ベルメール - Wikipedia」における記事のスタイルの不備としては、参考文献が記載されていない点が最も重大な問題である。比較的初期の文章には、外国語文献からの翻訳を思わせる特異な文章表現(*)が見られたが、もし実際に外国語のソースが存在するのであれば、それを明らかにすべきだろう。また、先に挙げた「行き過ぎた健康志向を批判」という見解も、元々は誰の見解なのかが不明なため、十分な議論が出来ていないのが現状であると思われる。記事内容の検証性のためには、例えば下記文献10)のように参考文献を明示することが必要だろう。
(*)例えば、次のような文章:
「ベルメールの作品は、女性美への言及と若い体つきの性愛化のために、当時のパリのアート文化に歓迎された。」
1) Albert Skira (directeur-administrateur): "MINOTAURE" (Facsimile reprint), (Editions d'Alt A. Skira, 1981)
2) 「シュルレアリスムの世界展」図録 (毎日新聞社, 1982)
3) 雑誌 「美術手帖」 (No.501) 特集 シュルレアリスムの30年代 [ミノトール]の作家たち (美術出版社, 1982.9.1)
4) 雑誌 「アールヴィヴァン」 (第22号) 特集 ミノトール (西部美術館, 1986.1.5)
5) Minotaure - Wikipedia, the free encyclopedia (Web Site)
6) Documents of Dada and Surrealism: Dada and Surrealist Journals in the Mary Reynolds Collection (Web Site)
7) Minotaure (Web Site)
8) 関楠生 『ヒトラーと退廃芸術』 (河出書房新社, 1992.10.30)
9) 『芸術の危機―ヒトラーと≪退廃芸術≫』 (アイメックス・ファインアート, 1995.8.13)
10) 退廃芸術 - Wikipedia (Web Site)