ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響

− 球体関節人形を中心に −


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[覚書2]

澁澤的ベルメール論のベルメール的迷宮


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[註]

1) 「人形塚」 (全集第3巻pp.365-392/初出:雑誌「推理ストーリー」1962年12月号(双葉社, 1962.12.1))

2) ボードレール「玩具のモラル」(訳=阿部良雄) (『澁澤龍彦 文学館 6 ダンディの箱』(編=澁澤龍彦)(筑摩書房, 1990.9.25)pp.315-325)

3) 『玩具のモラル』の中でボードレールが用いている「形而上学」の意味は、オートマタ(自動人形)の本質に直結している。

 人間と人形の歴史は古い。外の形はいくらでもまねることができた。しかし、神がアダムにしたように人形に命の息を吹き込むことは永遠の課題だった。ルネサンス以降、機械の仕組みが飛躍的な発展を遂げて、同時に人体の解剖学的研究も進んで、人間を機械的にとらえることができるようになって初めて、人は最初の近代オートマタの製作にとりかかったのだ。
 今日では人間機械論は、人間の精神を含めた全体性を疎外して破綻してしまった近代ヨーロッパの科学主義の弊害の一つのように、語られることが多い。しかし、ルネサンス以来のヨーロッパにおいては、人間を機械として認識することは、革命的な自由と創造の地平を開くものだった。人間を機械と見ることは、魂の部分を忘れることではなかった。それどころか、その反対に、機械を知ることによって、それまで宗教のヴェールに覆われていた魂の秘密にさえも、だれもが迫ることができると考えられたのだ。
 その中でのオートマタ製作とは、メカニックを通して魂の秘密へ問いかけることであり模索することにほかならない。
(竹下節子 『からくり人形の夢 人間・機械・近代ヨーロッパ』 (岩波書店, 2001.2.22)pp.45-46)
 上に引用した竹下節子の著書を紹介している岩波書店のWebページ(http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0028490/top.html)の「編集部より」は、著者の主張の的確な要約となっている。
 「人間=神の創った人形」というヨーロッパの人間観は、近代に至り人間を一個の機械としてとらえる「人間機械論」を生みました。オートマタ(自動の機械人形)を創るという行為は、神の創造行為をシミュレートし人間の精神と身体の秘密を総合的に理解する、ひいては神の創ったこの世界全体のメカニズムを解明しようとする「人間機械論」の実践でもあったのです。
澁澤が「人形愛の形而上学」で言及しているジャン・プラストー『自動人形』の評言(「自動人形はおそらく、私たちの形而上学的不安から生まれた」)は、このような観点から理解することができる。これに対して、澁澤の<人形愛の形而上学>の意味内容は、非常に曖昧である。

4) 澁澤の人形愛論とベルメール論との間の不整合こそが澁澤的ベルメール論の迷宮化をもたらした最大の要因である。(参照資料のコメント参照)

5) ここでは先に本文で引用した「ベルメールの人形哲学」の例を示す。

人間のエロティックな解剖学的可能性を、快感原則によって再構成することが、ともするとベルメールのひそかな野心だったのかもしれない。
この議論がベルメールの最初の人形製作に適用できないことは、もはや説明を要さないだろう。この議論の趣旨はベルメールの『イマージュの解剖学』に対応しているが、『イマージュの解剖学』はベルメールの人形製作以後の思索の結果なのであって、この論稿をもとにして人形製作が行われたのではない。本文で同時に引用したサラーヌ・アレクサンドリアンの言葉はこの事を考慮に入れて述べられているのである。
人形を操作して、これに想像し得る限りのあらゆる姿勢をとらせながら、彼は「肉体的無意識」ともいうべきもの、つまり快楽原則によって人間の解剖学を創造することをめざす、抑圧された欲望の塊ともいうべきものが存在することを発見したのであった。 (サラーヌ・アレクサンドリアン 『ハンス・ベルメール(骰子の7の目)−シュルレアリスムと画家叢書3』)

6) 自宅のコンセントの簡単な修理もできなかったというエピソードが残されている。(全集第3巻月報)


2003年7月27日更新 (2003年6月22日公開)
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