[覚書2]
ハンス・ベルメールに関連した澁澤龍彦のエッセイ群には、いくつかの論点が複雑に絡み合った状態で存在する。ここでは、澁澤のベルメール論を検討するための準備として、各エッセイから主要な論点に言及した文章を摘出し、論点の分布や論点間の相関を見渡すための資料を作成した。また、個々の論点に対する考えを整理するため、各論点ごとにコメントを附した。
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「玩具について」 (1963.3, 1963.4) つねに卑しめられ軽んぜられながらも、最も官能的に思想を表現してきた逆説の芸術。肉感的な美に対しても最も貪欲な精神主義。自然を装飾として、創造を遊戯として理解する極端な主観主義。 さらに、彼らのなかに、過去何年来というもの、人形に異常な関心をもちつづけているオブジェの製作者があることをつけ加えれば、わたしの今までの主張は、ますます確かな裏づけを得ることにもなろう。シュルレアリスムが、おのれのマニエリスムの端的な標識として掲げてもよいと思われる、その偏執的な画家の名は、ハンス・ベルメエルという。 「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」 (1968.11) 私が言いたいのは、次のようなことである。つまり、美術の歴史の縦をつらぬき、古代と現代とを同一平面上に均等化してしまうような、エロティシズムの直接的表現としての、裸体画の系列があるのではなかろうか、ということである。私たちの生活意識のなかで、すでに呪術は死に絶えているが、ただエロティシズムの造形的表現にのみ、それが奇妙に生き返ったかのような印象をあたえる。 先史時代の洞窟の壁に刻まれた女の裸体と、マニエリスム絵画と、ある種の20世紀のヌード写真とを一直線でつなげれば、ベルメールの人形も、当然、この延長線上に位置することになるだろう。 |
現在の考古学では、先史時代の「ヴィーナス像」は大地母神信仰に基づいて制作されたという考えが有力である。この場合の大地母神は、大地の豊穣をつかさどる女神を意味する。
「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」で述べられているエロティシズム表現の系譜論は、ジョルジュ・バタイユの『エロスの涙』の影響を強く受けている。この著作においてバタイユは先史時代の遺物の外観の「観察」から当時の人間の心性を推し量っているように見える。しかし、このような手法の有効性には疑問がある。
同様のことは、マニエリスムの評価についても言える。
「玩具について」で示された澁澤のマニエリスム観は、マニエリスムを反古典主義的な普遍様式として論じたグスタフ・ルネ・ホッケの影響を受けているが、若桑みどりは、『マニエリスム芸術論』の序章で、16世紀(マニエリスムの時代)を16世紀の価値基準で理解すべきであると指摘し、次のように述べている。
だが十六世紀芸術のデカダンスとは、 −(引用者による中略)− 古典主義的伝統への叛逆とか、非正統への信仰をもって本質とするのではけっしてない。十六世紀にあっては、デカダンスとはまさに、サンボリストが破壊しようとしたところの、権威あるアカデミズムをこの世に生み出したことにあるのだ。このように理解されたマニエリスムとベルメールとの間に有効な補助線を引くことは、はたして可能だろうか?
若桑みどり 『マニエリスム芸術論』(ちくま学芸文庫,1994.12.7),p.016.
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「女の王国 デルヴォーとベルメエル」 (1965.3) ポオル・デルヴォーの描く裸婦の標識が、そのみごとな陰毛であるとすれば、現代が産んだもう一人のエロティックな画家、ハンス・ベルメエルの女の標識は、おそらく、その肉体のスパスム(痙攣)であろう。 人形の場合も、グラフィックの場合も、ベルメエルの扱う対象はもっぱら女であり、女の肉体のスパスムである。 「女は自己の内部に、おそろしいスパスムを生ぜしめることの可能な一つの器官をもっている」といったのは18世紀の哲学者ディドロであるが、ハンス・ベルメエルは、初めてこのスパスムの美学の規範をつくったのである。ブルトンの「女の王国」はここにもあったのだ。 「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」 (1967.4) <美は痙攣的になるだろう>と言った、アンドレ・ブルトンの言葉をそのままに、痙攣する女体の美を表現したこの画家は真に現代的な、両極性をはらんだ先鋭な自我の持ち主だった。 |
ベルメール作品に対する「痙攣的」という形容は、アンドレ・ブルトンの美の定義との関わりにおいてのみ重要な意味を持つ。
美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。
アンドレ・ブルトン『ナジャ』(訳=巖谷國士)(白水社, 1989.5.15), p.163.
>「女の王国 デルヴォーとベルメエル」
ここで、「女の標識」として痙攣と陰毛とを並置していることに端的に顕れているように、澁澤は「痙攣」を極めて具体的なものとして取り扱っている。
しかし、痙攣には、「硬直性」(全身的な筋収縮および硬直)と「間代性」(激しいリズミカルな筋収縮および弛緩)という二種類の症状があり、その種類によってイメージが全く異なってくる。<文献>の「みづゑ」766号の欄で指摘したように、澁澤の「痙攣」のイメージはブルトンのそれとは異なる可能性がある。
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「玩具考」 (1965.4) むしろ、わたしは、昔のアニミズムを復活させた、ハンス・ベルメエルのエロティックな「関節人形」に注目したい。これは芸術の正統から最も遠いものであり、玩具の無道徳、無倫理に最も近いものであるといえる。 「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」 (1968.11) 現代芸術は幾多の幻覚的な絵画やオブジェを生み出したが、ベルメールの人形は、そのなかでも最も強力な、最も刺激の強烈なものだと私は思う。それはイメージというよりも、オブジェというよりも、むしろ一種のフェティッシュ(呪物)であり、偶像であるような気が私にはする。子供が愛撫する人形のような、原始民族が崇拝する呪物のような、なにか芸術を踏み越えた危険な魅惑が、そこから放射されているような気がする。肉体の迷宮を踏み迷うベルメールの執念には、人類が遠い過去の闇の中に忘れてきた、あの呪術に似た願望がひそんでいるような気さえする。先史時代の洞窟の壁に刻まれた女の裸体と、マニエリスム絵画と、ある種の20世紀のヌード写真とを一直線でつなげれば、ベルメールの人形も、当然、この延長線上に位置することになるだろう。 「人形愛の形而上学」 (1973.11) 私にとっては、新しい人形よりも古典的な人形の方がずっと魅力的なのである。ハンス・ベルメールの関節人形は、彼がベルリンのカイザー・フリードリッヒ美術館で見た、デューラー派の画家の手になる古い人形を、新たに復活させたものにほかならない。決して新しい人形ではないのである。 |
>「玩具考」
ここで澁澤は、ベルメールの人形が「昔のアニミズムを復活させた」と断定している。この文章の内容を素直に敷衍すると、<ベルメールは人形に霊があると信じていた>という解釈に帰着する。
仮にそのような解釈に立ったとして、以下の設問に回答できるだろうか?
(1)ベルメールの最初のプランが、腹部にパノラマ機構を内蔵した少女人形だったのは何故か。
(2)最初のプランの通りに制作を開始しながら、解体された人形の表現に移行していったのは何故か。
(3)身体のパーツを組み替える"Second Doll"の表現は何を意味するのか。
>「人形愛の形而上学」 ――「ピュグマリオンは、この「愛の呪い」の元祖ともいうべき神話の人物である」
ピグマリオニズムの定義に関わるピグマリオンの神話とは、自国の女性に失望したピグマリオンが、自ら象牙の女像を造って愛したということだ。 この時、ピグマリオンの愛の対象は、あくまでも女像そのものであり、その「モデル」ではない。だからこそ、女神アフロディーテが女像に命を与えて人間に変えるという話が成り立つ。このような文脈からは、ピグマリオンと「愛の呪い」との関連など成立しない。
実際、同じ「人形愛の形而上学」の中で、澁澤は、近代のナルシシズム的人形愛とピグマリオンとを「不毛なエロティシズム」というキーワードによって結びつけようとしている。(「自己愛」の項目参照)
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「玩具考」 (1965.4) レオナルドを俟つまでもなく、玩具を愛する人間のナルシシズムは、フロイトの精神分析学理論から、ただちに類推することも可能であろうが、象牙で造った女の像に恋をした、キュプロス王ピュグマリオンの伝説などを考えあわせれば、それがむしろオナニスト的気質の人間の嗜好に近いことも、容易に推察されるはずであろう。玩具愛好、つまり「物体愛」は、まぎれもない肛門期的小児性愛の徴候と見なすこともできよう。 「少女コレクション序説」 (1972.9) コレクションに対する情熱とは、いわば物体に対する嗜好であろう。生きている動物や鳥を集めても、それは一般にコレクションとは呼ばれないのである。艶やかな毛皮や極彩色の羽根を誇示していても、すでに体温のない冷たい物体、すなわち内部に綿をつめられ、眼窩にガラスの目玉をはめこまれた完全な剥製でなければ、それらはコレクションの対象とはなり得ないのだ。 −(引用者による中略)− 物体愛こそほとんどエロティックな情熱に似た、私たちの蒐集癖の心理学的な基盤をなすものであろう。 |
>「玩具考」
ここでは、ピグマリオンの神話をオナニスト的気質や「物体愛」と関連付けている。(上記「アニミズム、呪術、魔術」のコメント参照)
>「少女コレクション序説」
ここで述べられている「物体愛」は、アニミズム的な人形観とは相容れない性格のものである。
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「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」 (1967.4) すべての人形愛好者にとってと同じく、ベルメエルにとっても、女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり、無意識の近親相姦コンプレックスの対象であり、そしてまた、隠された強烈な自己愛の変形であったに違いないからである。 「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」 (1968.11) すべての人形愛好者にとってと同じく、狷介孤独な芸術家ベルメールにとっても、女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり、無意識の近親相姦コンプレックスの対象であり、そしてまた、隠された強烈な自己愛の変形であったことは疑いないところであろう。 「少女コレクション序説」 (1972.9) 女を一個の物体に出来るだけ近づかしめようとする「少女コレクション」のイマジネールな錬金術は、かくて、窮極の人形愛にいたって行き止まりになる。ここでは、すでに厳密な意味での対象物はないのだ。ポーのように、死んだ者しか愛することのできない者、想像世界においてしか愛の焔を燃やそうとしない者は、現実には愛の対象を必要とせず、対象の幻影だけで事足りるのである。幻影とは、すなわち人形である。人形とは、すなわち私の娘である。 −(引用者による中略)− 人形を愛する者と人形は同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛だったのである。 「ベルメールの人形哲学」 (1972.9) すべての人形愛好者にとってと同じく、現代では稀な「呪われた芸術家」と称してよいベルメールにとっても、女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり、無意識の近親相姦コンプレックスの対象であり、そしてまた、隠された強烈な自己愛の変形であったことは疑い得まい。 「人形愛の形而上学」 (1973.11) リラダンの『未来のイヴ』においては、この反自然主義の傾向がいっそう決定的になる。 −(引用者による中略)− すなわち、ミス・アリシア・クラリーがそのシンボルである卑俗な現実世界と、自動人形アダリーが代表しているような、無から造成された人工世界とのあいだには、一切の連絡が途絶えるのである。 −(引用者による中略)− 人工美女アダリーは、アリシアの外観を完全に模した人形であって、人形であればこそ魂はないのである。 |
「自己愛」: この論点こそが澁澤的ベルメール論の核心であり、既に「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」において以下のような完成された形で現れている。
すべての人形愛好者にとってと同じく、ベルメエルにとっても、女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり、無意識の近親相姦コンプレックスの対象であり、そしてまた、隠された強烈な自己愛の変形であったに違いないからである。これとほとんど同じ文章が「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」と「ベルメールの人形哲学」に現れていることに注目したい。(本稿では、これを澁澤の「ベルメール・テーゼ」と呼ぶことにする。)
ただし、「自己愛(=ナルシシズム)」という用語は、歴史的な経緯から多様な意味内容を持たされてきたため、その最小公倍数的な意味では、自己愛に基づかない創作活動など有り得ないことになってしまう。したがって、まず始めに、澁澤が用いている「自己愛」という言葉の意味を確定することが必要となる。
澁澤は、『幻想の画廊から』に収録された「人形愛 あるいはデカルト・コンプレックス」(1966.7)において、近代における人形製作の動因を「不毛なナルシス・コンプレックス」あるいは「性的な権力意志ともいうべきもの」と表現し、さらにその具体的な構造を、「独身者の機械」と「デカルト・コンプレックス」という二つの概念によって説明している。前者の概念は、オナニスト的な近代的自意識の「不毛なナルシス・コンプレックス」のあり方を象徴するものである。すなわち、
他者(女)との交流の確信を失った近代の自意識は、自然を離れ、必然的に機械崇拝におもむかねばならなかったのである。無秩序な自然(女)は、ナルシシックな自意識を困惑させ、恐怖させる。むしろ人間によってその動きや効果を完全に制御された、機械(人工の女)を相手にした方が快適ではないか?・・・・・・また、後者の概念は、澁澤によれば、自己を「架空の父」に擬した近親相姦的欲望を意味する。
ボオドレエルのような、生命の連続を嫌悪する徹底した反自然主義者は、父親になることを好まず、絶対に後継ぎをつくるまいとする。自分に価値をあたえる方法は、これ以外にないからである。むしろ、このような狂気じみたナルシシストが、みずから父親たることを拒否する立場に身を置きつつ、架空の父親に自己を擬して、ひそかに人形を愛するのではあるまいか。
このような自己愛の変形した心理を、わたしは「デカルト・コンプレックス」と名づけたいと思う。
また、『思考の紋章学』に収録された「悪魔の創造」(1976.6)において、澁澤はホフマンの『砂男』を例に引きながら以下のように述べている。
人形を生み出したその知能、人形を自由にするその権力、その魔力は、羨望すべきものだったにちがいないからだ。したがって、人形を愛する者のナルシシズム的陶酔は、人形に対する狂気の恋愛によって破滅する青年の立場と、超絶的な力によって人形を支配する父の立場、この二つの立場を我がものとすることによって、初めて完全なものになるのではないかと私は思う。この文章の「人形を自由にするその権力」あるいは「人形を支配する父」という表現から判断すると、澁澤の「デカルト・コンプレックス」は上述の「性的な権力意志」という側面を有していると言える。
以上のことから、澁澤が考えるナルシシズム的な人形愛とは、性愛の対象を操作し支配し所有しようとする自己中心的な欲望が、現実との接触不能という契機によって、その対象を「現実の女」から「人工の女」へと移行した結果として生じたものであると解釈できる。このような欲望を持つナルシシストにとって人形を製作することは、自らの幻想の中の自己像に相応しい理想的な対象を完全に所有するための最も有効な方法であろう。
「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」が発表されたのは「人形愛 あるいはデカルト・コンプレックス」の約半年後である。澁澤の「ベルメール・テーゼ」とは、彼の人形愛論をベルメール論に直接導入することによって成立したものであると思われる。
>「少女コレクション序説」 ――「人形を愛する者と人形は同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛だったのである。」
この意味のとりにくい文章を理解するために、澁澤の「悪魔の創造」から再び引用してみる。
愛される対象とは、愛する主体の「精神が対象化された幻」でしかないからだ。ちょうどアダムの胸から抜き取った肋骨によって、イヴがこの世に誕生したように。要するに、人形愛の本質は人形に投影された自己愛である、ということである。この文章から、ベルメール・テーゼにおける「女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり」という行の意味を理解することができる。
以上のようなナルシシズム的人形愛論に対して、次のような設問を課してみよう。
<ベルメールの『人形』において少女人形が解体されなければならなかったのは何故か?>
この設問に答えることは、ベルメール論として解決すべき基本的な課題である。 ...しかし結論は、「この人形愛論の範囲内では回答不能」、であろう。総じて、澁澤のナルシシズム的人形愛論では、ベルメールの人形写真にしばしば感じられる死の臭いや暴力的な視線を捕捉することができない。再度「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」を見てみよう。上掲の枠内の引用文に続いて、彼は次のように書いている。
公園や満員電車の暗がりにも、おそらくベルメエルの妄執と同じ妄執をいだいた、無数の人間――彼らは痴漢と呼ばれる――がつねに出没していることであろうが、彼らには、ついに救いはないのである。軽犯罪的なセックスの妄執を、美に昇華させることができた芸術家は幸いである。ハンス・ベルメエルは、そのような稀なる資質に恵まれた、特異な画家というべきであろう。一方、「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」では次のように書いている。(「子供の最初の形而上学」の項目参照)
桃色や黄色の光をあてられ、靴下やシュミーズやレースの散乱するなかに置かれた人形は、なにか色情的な犯罪現場の遺棄屍体といった感じがしないだろうか。この人形の作者は、ともすると「デュッセルドルフの殺人鬼」や「斬り裂きジャック」の親類のような気がしないだろうか。ベルメールの人形作品を「色情的な犯罪現場の遺棄屍体」とまで表現する一方、ナルシシズム的人形愛論の文脈では痴漢と同等の「軽犯罪」と表現する。 ... 澁澤の人形愛論とベルメール論との間の不整合。これこそが澁澤的ベルメール論の迷宮化の最大の要因である。
>「人形愛の形而上学」 ――「人工美女アダリーは、アリシアの外観を完全に模した人形であって、人形であればこそ魂はないのである。」
この文章から、澁澤のナルシシズム的人形観とアニミズム的人形観とが明確に対立することが確認できる。
>「人形愛の形而上学」 ――「ダダイストやシュルレアリストの多くが、人体模型やマネキン人形に異常な執着を見せたのも、人形愛の形而上学の最後の燃焼とも言うべき不毛なエロティシズムをそこに敏感に感じ取ったからにほかなるまい。」
ここで言及されているシュルレアリストの中にベルメールは属しているのだろうか? 少なくとも、本論点「自己愛」の論旨からは、”Yes”であろう。
しかし、一方で、「アニミズム、呪術、魔術」の項目で引用したように、同じエッセイの冒頭で澁澤は、やや曖昧な表現ながらも、ベルメールの人形が「素朴なアニミズム的信仰の影をとどめた古い人形」に属すると受け取られるような文章を書いている。
そして、このような曖昧さこそ、澁澤が自らのベルメール論の矛盾に気付いたことを示しているように思われる。 ...このエッセイの二年半後、澁澤は「人造人間論」(後に「悪魔の創造」と改題)という優れた人形論を書くが、そこにはもはやベルメールは登場しない。
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「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」 (1967.4) ベルメエルにとって、女体は何より貴重な夢想のための素材である。想像力の働きによって、女体は伸びたり縮んだり、痙攣したり彎曲したり、二重になったり裏返しになったり、その肉体の各部分を自由に交換したりしたりする。 ハンス・ベルメール、肉体の迷宮 (1968.11) 『イメージの解剖学』という本のなかでベルメール自身が語っているが、彼には、女が一個のエロティックなオブジェになってくれるような、生物学的進化の夢想があるようだ。 「少女コレクション序説」 (1972.9) 私がここで読者諸子の注意を喚起せんとしているのは、少女という存在そのものの本質的な客体性だったのである。なにも私たちが剥製師の真似をして、少女の体内に綿をつめ、眼窩にガラスの目玉をはめこまなくても、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体であるという点を強調したかったのである。 「ベルメールの人形哲学」 (1972.9) 人間のエロティックな解剖学的可能性を、快感原則によって再構成することが、ともするとベルメールのひそかな野心だったのかもしれない。そのために、ありとあらゆる肉体の変形に適応するような、理想的なファンム・オブジェとしての人形が要求されたのであろう。 |
>「少女コレクション序説」
このエッセイで展開された「自己愛」+「物体愛」+「ファンム・オブジェ希求」の三位一体論は、澁澤のベルメール・エッセイの中で最も首尾一貫した議論である。
澁澤のナルシシズム的人形愛論では、自己愛は「ファンム・オブジェ」を対象とする物体愛という形で顕れる。少なくともこの説明自体には論理的な破綻は見られない。これを通常の「人形論」と見るならば、極めて完成度の高い理論であると言える。しかし、このような観点からは、やはり、ベルメールの「黒いエロティシズム」は視野から外れてしまう。自己愛が造り出す結界の中には、所詮、「死」の入る余地はないのだ。 "No room! No room!"
>「ベルメールの人形哲学」 ――「人間のエロティックな解剖学的可能性を、快感原則によって再構成すること」
仮にこの議論の対象を『人形の遊戯』("Second Doll")以降の作品に限定するのであれば、一定の説得力を持ち得る。しかし、この対象を『人形』("First Doll")製作の動機にまで拡げることはできない。さらに言えば、この議論は、下記の論点「子供の最初の形而上学」とは両立しない。この場合の「快感原則」と人形の肉体に関する「形而上学的な問題意識」とは全く次元の異なるものだろう。これらを敢えて両立させようとするならば、例えば、「形而上学」は『人形』における解体された人形の説明に用い、また、「快感原則」は『人形の遊戯』における再構成された人形の説明に用いる、というように、棲み分けを図る必要がある。そして、その際に重要なのは、それらの説明の間の内的な関連なのだ。ハンス・ベルメールという一人の作家の一面のみに着目して、そこから導き出した(本来は限定的な)結論を無条件に一般化していては、決して本質は見えてこないだろう。
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「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」 (1968.11) 肉体に対するベルメールの仮借なき探求は、ちょうど好奇心の強い子供が、時計や玩具や人形をこわして、その内部のメカニズムをあばき出そうとする熱意に似たものを感じさせるではないか。肉体の迷宮とは、まことに言い得て妙である。 「ベルメールの人形哲学」 (1972.9) ベルメールのエロティシズムが、単に皮膚の表面の接触といった通俗的な面に局限されず、その隠された内部の原因をあばき出そうという、ボードレールのいわゆる「子供の最初の形而上学」に支配されたものであるらしいことは、ここで特に強調してしておく必要があろう。 |
この論点では、「子供の最初の形而上学」とは、自立的に動作する機械のメカニズム(子供にとっては「生命」あるいは「魂」の在処)をあばき出そうとする知的な傾向と捉えることができる。
とするなら、物に対する形而上学的関心と性犯罪者の「破壊の衝動」とが、一体どのような論理で結びつくのか? (この疑問は、<文献>の「みづゑ」766号の欄で述べた通り。)
「子供の最初の形而上学」の対象は自己の外部にある「物」である。仮に、澁澤の言うように「子供の破壊の対象たる時計や玩具が、ベルメールの場合、そのまま女体に移行した」ということであれば、ベルメールの「イメージの解剖学」の対象は<「物」として把握された人体>であると言える。このように理解したとき、「子供の形而上学」は、はたして「人形愛」と両立するものだろうか? 少なくとも、時計や玩具を壊す子供にとって、それらは知的な関心の対象ではあっても自己愛を投影する対象ではないだろう。
>「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」
「デュッセルドルフの殺人鬼」(デュッセルドルフの吸血鬼)への着目は慧眼と言える。
1929年から1930年にかけてドイツのデュッセルドルフ市を戦慄させた連続快楽殺人事件の犯人ペーター・キュルテンは1930年に逮捕され1931年に死刑となった。同年、フリッツ・ラング監督はこの事件を題材として映画「M」(1931,独)を制作した。
ベルメールは、当然この事件のことをリアルタイムで聞き知っていたはずである。
※もちろん、芸術家(ベルメール)の表現内容を彼の内面そのものとして短絡的に捉えるべきではない。
>「ベルメールの人形哲学」 ――「破壊の衝動をぶつけるべき一種の模擬物を発明した。」
いかにも澁澤らしい卓越した「コピー」である。しかし、...
ベルメールの最初のプランは腹部にパノラマ機構を内蔵した少女人形だった。この初期の段階では、まだ球体関節は採用されていない。仮に、ベルメールにとって「破壊の衝動」の対象が「女体」であったとしたなら、その「模擬物」なるものを可能な限り実際の人体に近づけようとするだろう。パノラマ機構など付ける意味がない。
そもそも、「破壊の衝動」を抱えた者が、破壊されるべき等身大人形を自ら造形するなどということが、はたしてあり得るだろうか? 己の頭の中のイメージを、実体を有する物として造りあげる時に直面する物質の抵抗。それを組み伏せるために必要な周到な計画、試行錯誤、忍耐。ベルメールの人形作りのプロセスを想像すれば、この文章のような考えは思い浮かばないのではないだろうか?
ここで注目すべきなのは、人形制作では、まずバラバラの身体パーツが先に出来上がるという事だ。つまり「破壊の結果」が最初に現れる。... 結論を端的に言うならば、ベルメールは破壊されるべき人形を「発明した」のではなく、人形制作の過程で、「解体された身体」のイメージを「発見した」のだ。破壊の衝動をぶつけることと破壊のイメージに戦慄し惹き付けられることとは、全く異なる次元に属することなのだ。
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「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」 (1967.4) 伝記によると、ベルメエルは母親の溺愛を受けた息子であり、その後年のスキャンダラスな人形製作の動機には、従妹の少女ウルスラへの後ろめたい恋情があったという。ナボコフの『ロリータ』によって創始されたニンフェット(小妖精)という観念が、たぶん、ベルメエルの少年時代からの妄執であったろう。 「黒いダイヤモンドのごとく・・・・・・」 (1973.3) 呪われたナルシシストの光学においては、少女は妖精であり、妖精は天使であり、天使は人形であり、人形は少女なのであって、人間そのものの姿はついに見えないのである。 「ファンム・アンファンの楽園」 (1973.4) この生き生きとした、自由奔放な、女の子たちの薔薇色の楽園を眺めて、シュルレアリストたちの愛する「不思議の国のアリス」やブルトンの憧れるファンム・アンファン(子供としての女)を想像するのは、私たちの自由であろう。そういえば、ベルメールは70歳の老齢にいたるまで、一貫してファンム・アンファンを描きつづけた、稀有なる画家だった。 「アリスあるいはナルシストの心のレンズ」 (1973.5) ここで、どうしても私が思い出さざるを得ないのは、もうひとりの二十世紀の少女崇拝者たる人形師ハンス・ベルメールである。 −(引用者による中略)− ドジソンが、もしベルメールの可憐な少女人形を眺めたら、どんなに狂喜するかは想像するにあまりがあろう。 |
「ファンム・アンファン、少女崇拝」: 澁澤的ベルメール論において最も理解しがたい論点である。そもそもベルメールが少女崇拝者であったのなら、『人形』における解体された少女人形の表現とは、いったい何なのか?
「自己愛」および「ファンム・オブジェ」の項目で指摘したように、元々、澁澤のナルシシズム的人形愛論はベルメールの「黒いエロティシズム」を視野から外す傾向がある。しかし同時に、「破壊の衝動」という表現に見られるように、澁澤がベルメールの暴力的な視線を考慮に入れようとしてきたことも事実である(「子供の形而上学」の項目参照)。ところが、ここに来て、ベルメールをベルメールたらしめた特徴が完全に無視される。
澁澤の主要なベルメール・エッセイは、1960年代前半から70年代前半までの約10年間に書かれた。比較的初期の「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」では、本論点は明確には現れていない。ただ、「小妖精」という表現には本論点の萌芽が見られるように思われる。
本論点は、ベルメール論の後期のものに属する「黒いダイヤモンドのごとく・・・・・・」、「ファンム・アンファンの楽園」、「アリスあるいはナルシストの心のレンズ」の3作品に、或る意味唐突に現れる。この時期に、何故このような論点が出現したのかは不明だが、おそらくは、ナルシシズム的人形愛論から定向進化的に導かれたものであろう。例えば、「ベルメール・テーゼ」の文章をベルメール論からいったん切り離し、ナルシシズムという論点を媒介にルイス・キャロルに関連付けた後、再度ベルメール論に適用する...このような操作によって、ベルメール=ルイス・キャロル=少女崇拝者という三段論法的な等式が導き出される。
しかし、本来「崇拝」とは己のナルシシズムを対象に依託する心理であろう。これに対して、澁澤がベルメール論で論じてきた自己愛的なエロティシズムは対象を支配しようとする自己中心性を不可分の要素として持つ(「自己愛」の項目参照)。同じ「自己愛」を起源としていても、その現れ方はまったく異なってくるはずなのである。この観点に立脚するならば、上述の論理操作は、ナルシシズム的人形愛から「性的な権力意志」を除去するための蒸留操作のように機能していると言える。
一方、そもそもルイス・キャロル=少女崇拝者という等式が単純に成立するか?、という疑問もある。もし、成立しないのならば、上述の議論もろとも、この論点そのものが崩壊する。
以上に記したコメントは主に違和感を感じた箇所を対象としているため、当然の事ながら批判的な見解が多くを占めている。
澁澤龍彦のエッセイは、あくまでもエンターテイメントであって、学術論文として書かれたものではない。したがって、文章の訴求力を優先した結果として、論理の一貫性がある程度犠牲になったしても、それ自体は本質的な欠陥ではない。
しかし、彼のベルメール論を論攷として取り扱う場合に限っては、徹底した批判的検討に基づいて、その意義と限界を明らかにする作業が不可欠である。そして、そのような作業を通してのみ澁澤の遺した論点を受け継ぐことが出来ると、当サイトでは確信している。
「玩具について」
[初出: 「現代詩」 (1963.3, 1963.4)/ 全集第4巻pp.171-269]
「女の王国 デルヴォーとベルメエル」
(旧題:「女の王国 ポオル・デルヴォーとハンス・ベルメエル」)
[初出: 「新婦人」 (1965.3)/ 全集第8巻pp.300-307.]
「玩具考」
[初出: 「美術手帖」 (1965.4 増刊号)/ 全集第6巻pp.275-280.]
「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」
(旧題:「痙攣する女体の美 ハンス・ベルメール個展」)
[初出: 「SD (スペースデザイン)」 29号 (1967.4)/ 全集第8巻pp.307-311.]
「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」
[初出: 「みづゑ」 766号 (1968.11)/ 全集第14巻pp.172-182.]
「少女コレクション序説」
[初出: 「芸術生活」 No.277 (1972.9)/ 全集第12巻pp.315-324.]
「ベルメールの人形哲学」
[初出: 「gq」 第1号 (1972.9)/ 全集第12巻pp.337-340.]
「黒いダイヤモンドのごとく・・・・・・」
[初出: 『シュルレアリスムと画家叢書<骰子の7の目>』刊行記念小冊子「六人の画家」 (1973.3)/ 全集第12巻pp.552-553.]
「ファンム・アンファンの楽園」
[初出: 「gq」 第3号 (1973.4)/ 全集第12巻pp.341-344.]
「アリスあるいはナルシストの心のレンズ」
[初出: 『アリスの絵本』 (1973.5)/ 全集第12巻pp.345-347.]
「人形愛の形而上学」
[初出: 「芸術生活」 No.291 (1973.11)/ 全集第12巻pp.325-336.]
澁澤のベルメール論には、この他に以下の2作品がある。
第一の作品は、澁澤が初めてベルメールに言及した文章として重要である。また、第二の作品において注目されるのは、(1) 「写真家」としてのベルメールという視点の重要性(この視点については既に戦前に山中散生によって述べられている)、および、(2) 「人形」写真とシュルレアリスムのデペイズマンとの関連について言及している点である。
「彼女は虚無の返事を怖れる」
[初出: 『あんま−愛欲を支える劇場の話』 (1962.11)/ 全集第3巻pp.360-361.]
「写真家ベルメール 序にかえて」
[初出: 『ハンス・ベルメール写真集』 (1984.8)/ 全集第22巻pp.433-437.]
また、本稿で言及した人形論のデータは以下の通りである。
「人形愛 あるいはデカルト・コンプレックス」
[初出: 「SD(スペースデザイン)」 19号 (1966.7)/ 全集第8巻pp.434-440.]
「悪魔の創造」(原題:「人造人間論」)
[初出: 「文藝」(1976.6)/ 全集第14巻pp.357-372.]