ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響

− 球体関節人形を中心に −


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[覚書2]

澁澤的ベルメール論のベルメール的迷宮


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6.澁澤的ベルメール論の意義

 誤解を恐れずに端的に私の考えを述べるならば、ハンス・ベルメールはいわゆる「人形師」ではない。澁澤龍彦をはじめとする日本の論者や創作家の多くが彼を人形師と捉えたのは、いわば「創造的誤解」に類するものである。私がベルメールを「人形師」と呼ぶとき、それは彼の果たした役割に敬意を表してそう呼ぶに過ぎない。

 ベルメールの製作した人形は延べにして数えてもたかだか数体である。これはヒットラーの戦争によってベルメールの創作活動が中断を余儀なくされたこともあるが、そもそもベルメールの創作意図が人形製作そのものではなく、人形を用いた表現であったためである。ベルメールは、"First Doll"の製作の際に、たまたまその製作過程を写真に撮っていたわけではない。既に述べたように、彼は人形の製作工程の各局面で人形の写真を撮影して、その集成を「芸術作品」として提示しようとしていたのである。このような表現方法は、当時の芸術の分野では画期的なことであった。

 私の考えでは、ベルメールはこのアイデアを科学・技術関係の文献から得ている。例えば工業製品の製作工程を写真や図によって説明する事は、これらの文献ではごく一般的なことである。ベルメールがこのような文献にしばしば接していたであろうことは、彼のそれまでの経歴から容易に推測することができる。ベルメールはエンジニアの家庭に育ち、商業デザインの仕事で生計を立てていた。実際に彼の装幀した科学・技術分野の書籍がいくつか残されている。また、ギムナジウム卒業後、製鋼所や炭坑で働いた経験もあり、ほとんど出席しなかったとは言えベルリン工科大学にも入学した。

 1933年、ベルメールは政権を握ったナチスに抗議するため、国家にとって「有用な」仕事を一切行わないことを決意し、人形製作に着手する。これは、家庭における独裁者でありナチスの熱烈な支持者であった父親に対する叛逆の集大成でもあった。彼は父親の工作道具を持ち出して弟とともに人形を製作する。臍の孔から他愛のないパノラマが見える少女人形。しばしば言及されるように、ベルメールにとって、この人形製作そのものが「有用性」への抵抗であった。しかし、そればかりではない。彼は、その芸術表現の方法論そのものを「有用性」に奉仕するエンジニアリングの分野から転用したのだ。これ以上効果的な反抗が他にあるだろうか?

 また、"Second Doll"(1935年)の人形写真については、私は現在のところ次のように考えている。これらの作品に最も大きな影響を及ぼしたのは、マックス・エルンストのコラージュ・ロマンである。エルンストの『百頭女』(1929年)、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930年)、 『慈善週間 または七大元素』(1934年)は、古書、雑誌、科学書などの挿絵を切り貼りして制作したコラージュを纏めて絵物語に作り上げた作品である。コラージュによるデペイズマンを駆使して奇怪な悪夢のような光景を繰り広げるこれらの作品を、ベルメールは彼独自の方法で実現しようとした。彼は、そのためにコラージュ(切り貼り)に相当する機能を持つ新たな人形を必要とした。解体され再構成される人形。ベルメールは、シュルレアリスト・グループと交流した1935年2月のパリ滞在を終えて帰国した後、友人の人形作家ロッテ・プリッツェルに相談を持ちかけた。そして、彼女と一緒に訪れたカイザー・フリードリヒ美術館で、デューラー派の作とされる男女一対の木製の関節人形を発見する。腹部に球体関節をもつこれらの人形こそ彼の求める人形のヒントとなるものだった。...

 ここで、澁澤のベルメール論に話を戻そう。

 澁澤は、1984年刊行された『ハンス・ベルメール写真集』(リブロポート)に序文「写真家ベルメール 序にかえて」を寄せた。この写真集は、1983年の12月からパリのポンピドゥー・センターで開催された「ベルメール写真回顧展」に際して出版された写真集『HANS BELLMER photographe』の日本語翻訳版である。澁澤のこの文章は、「人形愛の形而上学」(1973.11)からほぼ10年後のベルメール論である。このベルメール論の特徴は、かつてのベルメール論の論点に全く触れていないという点である。ここでは、澁澤は自身の人形論から解放された、いわば新鮮な目でベルメールに対面している。澁澤は次のように述べる。

 なるほど、これまでにも私たちはベルメールの人形の写真をよく眺めてきた。彼がみずから人形の写真を撮ることをよく知ってはいた。しかしその写真を、どちらかといえば私たちは彼の人形を知るための手段として解してきたような気がするのであり、写真それ自体として眺めてこなかったような気がするのである。これは私たちだけでなく、フランスその他でも同じことで、ベルメールを論じる人は多くいても、写真家という視点から論じたひとはまだ一人もいないのではあるまいか。
ここで澁澤は、かつての己の認識の偏りを認めている(「どちらかといえば私たちは彼の人形を知るための手段として解してきた」)。そして、その偏りが一般的なことであったと述べている。しかし実際には、既に1939年に山中散生が「ベルメエルの人形幻想」において、ベルメールの写真家としての位置付けに言及していた。澁澤の認識の偏りは彼だけのものではなかったかもしれないが、決して普遍的なものではなかったのである。

 ベルメールを理解するためには、彼を人形師として見るのではなく、或る種の写真家として見ること、そしてさらに言えば、ベルメールの個々の写真を孤立した作品として見るのではなく、一連の写真として見ることが重要である。この章の冒頭で私が、<ハンス・ベルメールはいわゆる「人形師」ではない>と述べ、自身の考察を展開したのは、そのことを明確にするためであった。

 では、澁澤らがベルメールを人形師と捉えたのは「創造的誤解」に類するものである、とはどういう意味か?

 私は「創造的誤解」という言葉を、澁澤がベルメールを人形師と捉えることによって、結果として日本における真正の人形師四谷シモンを導き、そして四谷シモンとともに(あるいは四谷シモンを介して)、後に続く多くの人形作家たちに決定的な影響を与えたことを高く評価して用いている。これこそが、澁澤的ベルメール論の意義である。

 

 すでに見てきたように、澁澤の一連のベルメール・エッセイを単一の「ベルメール論」として評価するならば、多くの矛盾を抱えた不完全なものと言う他はない。しかし、ひとつひとつのエッセイを個別の文学作品として見るのであれば、自ずと評価は異なってくる。――澁澤はハンス・ベルメールを自身の人形論や芸術論と絡ませながら論じようとした。澁澤のベルメール・エッセイとは、そのためのブレーンストーミング的思索の結果である、と評することができるかもしれない。その結果の一片が、自身の表現を模索する創作家にとって何らかの啓示となったのであれば、その事実自体が重要なのであって、その意味においては、澁澤の思索の内容がベルメールの本質を捉えているか否かということは大した問題ではない。――澁澤のベルメール論が多様な論点から成っていたことは、この場合は有利な方向にはたらく。そのモザイクを構成する貴石が様々な方向に面を向けているという事は、様々な位置にいる者に光を反射し返す事を意味するからである。

7.おわりに


2003年7月30日公開
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