[覚書2]
『人形塚』は、澁澤龍彦全集第3巻に補遺として収められた短編小説である1)。この作品は、雑誌「推理ストーリー」の1962年12月号に掲載されたが、その後は単行本にも収録されず、全集刊行の時まで日の目を見ることはなかった。文字通り忘れられた作品である。しかし、この小説こそが、最初の本格的なベルメール論と言うべき作品なのである。もちろん、作中にベルメールの名が出てくるわけではない。しかし、この小説がベルメールの人形に触発されて書かれたものであることは、一読で了解することができる。驚くことに、この作品には、「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」(1967.4)以降のエッセイで論じられた論点の多くが既に明瞭な形で現れているのだ。
この作品の感想を一言で表せば、「恐るべき小説」である。その予見性故に、また現代の倫理規制に対する徹底的な侵犯故に、もはや商業誌に掲載することが決して許されないような小説である。
この小説は、小学校の教諭である主人公の眼を通して語られる。彼は、学校の帰りに、人形塚に遺棄された二人の教え子の少女の死体を見つけて自分の部屋に持ち帰る。しかし、彼の部屋に同期の教員仲間が集まることになり、彼は二体の死体を隠すためにばらばらに切断する。しかし、ビニール袋に入れた残骸を仲間達に見つけられて破滅する。
このような粗筋から、我々は江戸川乱歩の小説『虫』を思い浮かべることができるだろう。『虫』の主人公は、自らの手で憧れの女優を殺してその死体を手に入れる。しかし、死体の腐敗という現実に直面し、それと必死に格闘するが最後には敗れ去る。彼は決して現実原則から逃れることはできない。 ...死体は腐敗する。『虫』以降の小説の主人公はこの現実に対峙しなければならない。
この問題を澁澤は極めて巧妙な方法で解決する。まず、澁澤は物語の事象を三つの階層に分ける。この内、第一の階層は、主人公にも、主人公の目を通して見る我々読者にも隠された真実の世界である。第二の階層は、主人公の狂気によって生まれた、主人公にとっての「現実」である。そして、第三の階層は主人公の「妄想」の世界である。
主人公は、第二の階層に在って、人形塚から二人の少女の死体を持ち帰るが、彼は少女の死体を発見した時、それを人形であると妄想的に認識する。
(死んでいる・・・・・・)
(ちゃんと目をつぶって・・・・・・)
(すばらしい!)
(ほんとうの人形だ・・・・・・)
第三の階層では、少女の死体は「人形」であり、彼は捨てられていた人形を自室に持ち帰ったにすぎない。彼は、この後、第二の階層と第三の階層を往き来することになる。しかし、第一の階層の存在は最後まで明示されない。そして、実はこの階層構造こそが、澁澤が読者に対して仕掛けたトリックであり、同時に澁澤にとっての安全装置である。澁澤はこれによって、作中で主人公が直面するはずの問題−死体の腐敗や死体の解体に伴う諸々の困難−を回避するとともに、作者である澁澤自身に向けられるかもしれない「道徳的」な諸攻撃に対する抵抗線を構築することができた。
...このトリックの種とは、<第一の階層にあっては、主人公が持ち帰って解体した「少女たち」は、実は本物の人形であった>という明かされない真実である。澁澤のベルメール論を思い出してみよう。
彼は現実の犯罪者、たとえば「切り裂きジャック」のような性犯罪者たることを免れるべく、みずからの破壊の衝動をぶつけるべき一種の模擬物を発明した。 (「ベルメールの人形哲学」)すなわち、澁澤のトリックとは、この「快楽殺人の代替行為」論の応用である。「少女の死体」が人形であるという点で、第一の階層と第三の階層とは通底していたのである。
主人公が人形塚で最初に見つけた少女は、歯列矯正の金具のため兎のような唇をしている。また、もう一人の少女は、右足に金属の義足を付けている。... 彼女らのモデルは明らかにベルメールの人形[1][2]である。
二人の少女は、いずれも教室で彼が辛く当たった生徒である。少女たちに対する彼の苛立ちは、彼が「現実(の女)との接触不能」に陥った<独身者>であることに起因している。彼は、彼女らを「人形」として所有することによって初めてその事に気付く。
おれは女生徒とのあいだに、いまこそ、はじめて、本当の親密さが生じたように思われた。それは教師生活に入ってから初めての、貴重な、心にしみる経験だった。これは、澁澤が考えるナルシシズム的人形愛の典型例である。そして彼は、巧妙なトリックによって究極の人形をこの小説世界に創造したのだ。
(考えてみると、おれは子供の時分から、女の子というものに故しらぬ畏怖の感情をいだいていたようだ。姉も妹もいない環境に育ったせいもあろう。おれが女の子をいじめたり、ともすると彼女らに意地わるい態度を示したりし勝ちなのも、今にして思えば、こんな畏怖の感情の逆のあらわれであったにちがいない)
一人の<独身者>と二体の少女人形。澁澤は、「少女コレクション序説」で次のように述べる。
女を一個の物体に出来るだけ近づかしめようとする「少女コレクション」のイマジネールな錬金術は、かくて、窮極の人形愛にいたって行き止まりになる。 (「少女コレクション序説」)主人公と人形たちとの関係は、既に「窮極の人形愛」の状況を実現し、もはや行き止まりの地点にある。だが、その場所からベルメールの姿は見えるのか?
澁澤があくまでもベルメールの創作の論理構造を再現したいのであれば、既に「少女コレクション」のアイテムとして完成している人形たちを解体しなければならない。そのための理屈を提示するために、彼は、きわどい論理の跳躍を試みる。この過程をもう少し詳しく見て行こう。――
主人公と人形たちとの同居は長くは続かない。月例の読書会のために彼の部屋に教師仲間が集まることになったのだ。彼は人形たちを隠す必要に迫られる。(人形の手足をばらばらにして、風呂敷包みにつつんでおこうか?)
この思いつきは、最初、ほんの冗談のように、頭の隅に浮かんだ小っぽけな観念にすぎなかったが、それが次第次第に大きくふくれあがって、とうとう、おれの頭をいっぱいに満たす、いわば強迫観念のようなものにまで成長して行ったのだ。
おれは瘧が起きたようにがたがた慄えながら、人形の手脚を鋭利な刃物でばらばらに切断する、その甘美な空想の情景を、目瞼の裏に思い描いた。
甘美な? そうだ、おれは人形を愛していればこそ、人形をもっと人形らしいもの、つまり、何というか、物体のようなものにしてやりたいという、甘美な空想に抗しがたく誘われるのではないか。
首や手脚を自由に胴体からはずしたり、また嵌めたりすることのできる人形だって、ちゃんと玩具屋に売っているのだ。そして、そんな人形が玩具屋で作られるのは、そんな風にばらばらにして遊ぶことを好む人間が、世の中にいるからこそであろう。
なにもおれだけの病的な欲望ではない。だれだって、人形の肢体をばらばらに分解してみたいという欲望を、心の奥に、必ずもっているにちがいないのだ。
欲望だって? そう、たしかに欲望だ。しかし、間違ってはいけないぞ、それはまぎれもない、愛の欲望なのだから。
ここで、まず注目されるのは、作者が主人公と人形たちの関係に動きを与えるために、外的な要因を導入していることである。しかし、作者は、主人公が人形たちを隠す必要に迫られて思い付いた「人形の解体」という観念を、主人公自身の欲望に結びつけようとする。さもなくば、「人形愛」と「人形の解体」とが、論理的に完全に断絶するからである。
はたして、その試みは成功しただろうか? このことを明らかにするために、いくつかの設問を補助線として提示し、それらに沿って検討を進めていこう。
【設問】 主人公の愛する「人形」とは何なのか? あるいは、「人形の肢体をばらばらに分解してみたいという欲望」とは、何に向けられた「愛の欲望」なのか?
そもそも澁澤の人形愛論における人形とは、人間の女の代替として、男の自己愛を受け止めるべく造られた「ひとがた」である。それは物であると同時に「人の形」を有するのであり、だからこそ「人形」たり得る。従って「人形の解体」とは、本来、「人形の否定」に他ならない。... 「人形を愛していればこそ、人形をもっと人形らしいもの、つまり、何というか、物体のようなものにしてやりたい」という主人公の言葉は、おそらくは「人形愛」や「物体愛」を連想させるために語られているのだろうが、その内容は詭弁でしかない。
ただし、解体された人形が人形愛の対象である場合が一つだけ有り得る。それは、その男が欲望するものが、現実には存在し得ない女<身体の部位が自由に着脱できる女>である場合である。そして、それを模擬するのが澁澤の言うベルメール的なファンム・オブジェである。
人間のエロティックな解剖学的可能性を、快感原則によって再構成することが、ともするとベルメールのひそかな野心だったのかもしれない。そのために、ありとあらゆる肉体の変形に適応するような、理想的なファンム・オブジェとしての人形が要求されたのであろう。 (「ベルメールの人形哲学」)このようなファンム・オブジェは人形愛論における極北であろう。しかし、このような論理によって辛うじて、ベルメールを人形愛論の内部に留めることが可能になる。澁澤的ベルメール論における第6の論点「ファンム・オブジェ」論とは、そのような役割を果たすべく語られたのである。
以上のような観点に立つ限りでは、「人形の解体」とは、人形を己の求めるファンム・オブジェに「カスタマイズ」するための一工程に過ぎない。しかし何故か作者澁澤は、人形愛とは異質の要素を導入し、それまでの論理を裏切っていく。
【設問】 「人形の手脚を鋭利な刃物でばらばらに切断する」ことに対して主人公が示す異様な興奮は、何を意味するのか?
主人公は、彼のファンム・オブジェを欲望しているのではなく、「人形の解体」というプロセス自体に欲情している。もう少し澁澤の記述を辿ってみよう。――
小説の主人公は、人形の衣服を脱がせ、四肢を包丁で切断していく。
ずっと昔から、子供の頃から、自分はこんな血みどろの光景にあこがれていたような気がした。はるかな過去の願望が、いま、やっと満たされたような気がした。主人公の目には、彼の愛するはずのファンム・オブジェの姿は映っていない。 ...これではっきりと分かるだろう。これは快楽殺人の欲望なのだ。
――夜、薄暗い電灯の下で、ひとりの幼い子供が脚を投げ出し。ぺたんと座って、無心に人形をこわしている。手をもぎ取り、首をひっこ抜き、さらにはナイフのようなもので、人形のふくらんだ腹から、ゼンマイのような腸をずるずる引っぱり出す、そうして、それらの穢ならしい残骸を、自分のまわりにごちゃごちゃいっぱい散らかして、子供は顔をあげ、にっと笑うのだ。
また、ここで登場する<人形を破壊する子供>のモチーフは、第7の論点「子供の最初の形而上学」につながるものであろう。しかし、実際には、その内容はボードレールの描く子供の姿とは全く異なっている。ボードレール『玩具のモラル』2)から該当部分を引用してみよう。
大部分の子供たちはとりわけ魂を見ることを欲する、ある者たちはしばらく使った後で、ある者たちはただちに。この欲望がどの程度速やかに侵入してくるかによって、玩具がどれほど長生きするかが決る。私は子供のこの奇癖をとがめ立てする勇気が自分の心に感じられない。これは最初の形而上学的傾向の一つなのだ。この欲望が子供の脳の髄に入りこんでしまうと、それは子供の指と爪とを、独特な敏捷さと力で満たす。子供は自分の玩具を裏返し、また引っくり返し、引っ掻いてみたり、揺ってみたり、壁にぶつけてみたり、床に投げてみたりする。時々、機械的な運動をまたやらせてみる、時としては逆の方向に。驚異的な生命が停止してしまう。子供は、テュイルリー宮を包囲する民衆のように、最後の努力をこころみる。ついに子供は玩具を半ば開いてみるのだ、なんといっても自分の方が強い。だが魂はどこにある? ここのところから茫然自失と悲しみが始まるのだ。ボードレールの描く子供の行動は優れて知的である3)。『人形塚』の子供との相違は決定的であろう。
しかし、これで、何故澁澤の第7論点が矛盾を内包しなければならなかったのかが推測可能になる。おそらく、澁澤は、「玩具の破壊」というテーマと「形而上学」という哲学用語との結び付きを、ことのほか気に入っていたのだろう。しかし、ボードレールの『玩具のモラル』に言及しながら、その後に次のような文章を付け加えねばならなかったのは、後者こそが澁澤の真意(実感)だったからなのだ。
ベルメールは人形を作っているというよりも、むしろ人形を壊しているという感じがしないだろうか。桃色や黄色の光をあてられ、靴下やシュミーズやレースの散乱するなかに置かれた人形は、なにか色情的な犯罪現場の遺棄屍体といった感じがしないだろうか。この人形の作者は、ともすると「デュッセルドルフの殺人鬼」や「斬り裂きジャック」の親類のような気がしないだろうか。 (「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」)
それにしても、主人公の「人形の解体」の欲望の本質とは何なのだろうか? 例えば、「デュッセルドルフの殺人鬼」ペーター・キュルテンの記録を見ると、その精神の底に、世界に対する呪詛や憤怒が固い核として存在している事が見て取れる。しかし、少なくとも『人形塚』の主人公には、そのような感情の徴候は感じられない。
すでに述べたように、「人形の解体」の欲望とは、<人の形>に対する否定の欲望である。ここで注目されるのは、この小説では「人形」と「死んだ少女の身体」という二つのイメージが密接に重ね合わされている点である。このことによって、「人形の解体」は、「人体の毀損」という強力な禁忌に直結する。おそらく、この禁忌を侵犯することによって得られる快楽とは、破壊行為を禁止する抑圧の鎖から己を解き放ち、自らの全能感を取り戻す快楽なのではないだろうか? ...もちろん、これはあくまで推測に過ぎない。
いずれにしても、ここに来て、「ファンム・オブジェ」論は放棄されたに等しい。そして、「人形愛」と「人形の解体」との決定的な断絶がもたらされる。
――ここまで、小説『人形塚』を、澁澤的ベルメール論の論点を援用して読み解き、そこから逆に、初期の澁澤的ベルメール論の構造を浮かび上がらせることを試みてきた。
その結果明らかになったことは、澁澤的ベルメール論の論点の多くが既にこの小説に現れていること、そして、澁澤的ベルメール論の迷宮化をもたらした要因4)もまた同時にこの時点で胚胎されていた、ということである。
おそらく、澁澤のベルメール作品に対する第一印象は、「快楽殺人の代替行為」論に近いものであっただろう。このことは、『人形塚』の構成そのものがこの考えの応用であること、また、この小説の真のクライマックスが人形の解体の場面であることから推測できる。
しかし、澁澤は、後のエッセイでベルメールを論じる際には人形愛論を基軸として論じようとした。すなわち「自己愛的三位一体論」(第4〜第6論点)である。
ただ、澁澤がベルメール作品から受けた印象の中には、どうしても人形愛論に納まりきらないものがあった。
【設問】 再度問う。何故このようなことになってしまったのか?