[覚書2]
以上の論点の中で、第1の論点「マニエリスム、エロティシズム表現の系譜論」は特に議論する必要はないだろう。また第2の論点「痙攣」については、痙攣(スパスム)という語が四谷シモンに深い感銘を与えたことを記憶しておけばよい。
また、最後の論点「ファンム・アンファン、少女崇拝」は、おそらくはベルメール・テーゼから導き出されたものでありながら、先行する論点の大半を御破算にする主張に逢着してしまったものである。この論点の出現は、ベルメール・テーゼの問題点が顕在化した結果であると考えられる。その意味では、澁澤のベルメール論を最終的に評価する上では重要な論点である。しかし、この論点自体からは、結局のところ、ベルメールの芸術について何の答えも導くことができない。
これに対して、第7の論点「子供の最初の形而上学」は、その議論の内部に矛盾を孕みつつも、ベルメールの人形制作の動因を説明しようとしている点で重要である。しかし、この論点に含まれるいずれの主張も「自己愛」論とは両立しない。まず、第一の「形而上学的関心」という主張に関しては、時計や玩具を壊す子供にとって、それらは知的な関心の対象ではあっても自己愛を投影する対象ではないことを考えれば明白だろう。(参照資料のコメント参照) また、もう一つの主張である「快楽殺人の代替行為」論についても、対象を破壊するような衝動は澁澤の「自己愛」論からは導かれないことを指摘しておきたい。
なお、澁澤のベルメール論において最も先鋭に対立する二つの主張、
「彼は現実の犯罪者、たとえば「切り裂きジャック」のような性犯罪者たることを免れるべく、みずからの破壊の衝動をぶつけるべき一種の模擬物を発明した」 (「ベルメールの人形哲学」)
「もうひとりの二十世紀の少女崇拝者たる人形師ハンス・ベルメール」 (「アリスあるいはナルシストの心のレンズ」)
一方、第3から第6までの論点は、ベルメール作品の本質に関わる議論である。このうち、第4から第6までの論点「自己愛」、「物体愛」、「ファンム・オブジェ」は互いに補い合う関係にある。そして、これらの論点(仮に「自己愛的三位一体論」とでも呼んでおく)は、第3の論点「アニミズム、呪術、魔術」と決定的に対立する。
このことについて、少し詳しく論じてみる。
まず、澁澤の議論を敷衍して、アニミズム的人形観、魔術(呪術)的人形観、形而上学的人形観、および、近代において顕著なナルシシズム的人形観を、霊性という観点から比較すると、以下のように整理できる。
アニミズム的: 人形は固有の霊を有する。
魔術(呪術)的: 人形はモデルの霊を分有する(人形は霊の容器となる)。
形而上学的: 「生きた人形」制作の野望(普通の人形は生きていないという認識が前提にある)。
ナルシシズム的: 純粋客体としての人形への愛。「人形であればこそ魂はない」。
このように見るならば、「自己愛」、「物体愛」および「ファンム・オブジェ」という三つの論点につながるナルシシズム的人形観は、他の三つの人形観と相容れないことが分かる。そして、これがとりわけアニミズム的人形観と真っ向から対立することは明白である。アニミズムが人形を自立した他者と見なすのに対して、ナルシシズムは他者の自立性を剥奪することを目指すからである。
そして、澁澤のベルメール論における最大の問題点は、このような対立関係にある二つの人形観がベルメールに関連付けられたまま、最後まで共存したことにある。
ここで再び表1を見てみよう。
表1の全体を眺めると、互いに両立し得ない論点や主張がレトリックによって接合されたり、重ね合わされたりしている様相が浮かび上がってくる。まるで人形の二対の脚部が腹部球体によって接合されたり、股関節の球体が乳房を偽装するかのように...。 澁澤のベルメール論の構造は、まさにベルメール的迷宮である。
それにしても、何故このようなことになってしまったのだろうか?
この要因を検討するために、まず、澁澤龍彦のベルメール論の真の原点に立ち帰ってみよう。 ...真の原点。それは、忘れ去られた原点である。
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