[覚書2]
下表は、澁澤のベルメール論における主要な論点8つを取り上げ、それらがどのエッセイで言及されているかを整理したものである。 ([参照資料])
| 文献 (初出年.月) | マニエリスム、エロティシズム系譜論 | 痙攣 | アニミズム、呪術、魔術 | 物体愛 | 自己愛 | ファンム・オブジェ | 子供の形而上学 | ファンム・アンファン、少女崇拝 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 玩具について (1963.3-4) | ○ | |||||||
| 女の王国 デルヴォーとベルメエル (1965.3) | ○ | |||||||
| 玩具考 (1965.4) | ○ | ○ | ||||||
| イメージの解剖学 ふたたびベルメエル (1967.4) | ○ | ○ | ○ | ( ○ ) | ||||
| ハンス・ベルメール、肉体の迷宮 (1968.11) | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | |||
| 少女コレクション序説 (1972.9) | ○ | ○ | ○ | |||||
| ベルメールの人形哲学 (1972.9) | ○ | ○ | ○ | |||||
| 黒いダイヤモンドのごとく・・・・・・ (1973.3) | ○ | |||||||
| ファンム・アンファンの楽園 (1973.4) | ○ | |||||||
| アリスあるいはナルシストの心のレンズ (1973.5) | ○ | |||||||
| 人形愛の形而上学 (1973.11) | ○ | ○ |
各論点の概要をまとめると、おおよそ以下のようになる。
ベルメールの作品を巨視的な西洋美術史やエロティシズム表現の系譜の中に位置付けようとする議論である。
「玩具について」では、マニエリスムを歴史を貫く芸術的異端として捉え、シュルレアリスムにおける「マニエリスムの端的な標識」としてベルメールを紹介した。
また、「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」では、古代から現代までの歴史を貫く「エロティシズムの直接的表現としての、裸体画の系列」にベルメールの人形が位置すると主張する。
趣旨:<ベルメールは「痙攣する女体の美を表現した」画家である。>
「玩具考」では、ベルメールの人形は「昔のアニミズムを復活させた」ものであると主張し、さらに、アニミズム的人形の具体例としてエジプトの墳墓に副葬された人形の例を挙げて比較している。
また、「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」では、ベルメールの人形について、「一種のフェティッシュ(呪物)であり、偶像であるような気が私にはする」と述べている。ここでは、澁澤はベルメールの人形に込められた強烈な情念の存在を認めている。
さらに、「人形愛の形而上学」では、ベルメールの関節人形が古いデューラー派の人形を新たに復活させたものであることを指摘し、素朴なアニミズム的信仰の影をとどめた古い人形に最も明瞭に見られる「古い人形の観念」を愛すると述べている。
趣旨:<玩具愛好すなわち「物体愛」とは、「体温のない冷たい物体」を媒介とした、ナルシシズム的・オナニズム的心理であり、これがコレクションに対する情熱の基盤となる。>
この論点の趣旨は概略次のようになる。
<ベルメールの自己愛は、彼の意志に従順に支配される理想の女を求め、「女を一個の物体に出来るだけ近づかしめようとする」。その自己愛を投影する対象が「少女」であり、「娘」であり、そしてその窮極の形態が「人形」である。なぜなら、「人形であればこそ魂はない」からだ。>
また、以下の文章は、「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」で初めて記され、「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」と「ベルメールの人形哲学」においてほぼそのままの形で反復された。
すべての人形愛好者にとってと同じく、ベルメエルにとっても、女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり、無意識の近親相姦コンプレックスの対象であり、そしてまた、隠された強烈な自己愛の変形であったに違いないからである。ここでは、これを澁澤の「ベルメール・テーゼ」と呼ぶことにする。ベルメール・テーゼは、澁澤のナルシシズム的人形愛論をベルメール論に直接導入することによって成立したものであると推測される(参照資料のコメント参照)。また、ベルメール・テーゼが、ベルメールの名を冠した三つのエッセイのなかで掲げられたという事実は、これが澁澤のベルメール論の核心であることを示唆している。
「自己愛」論をベルメール論に対応させてより具体的に展開したのが「ファンム・オブジェ」論である。すなわち、
<男にとって最もエロティックなものは、限りなく受け身の存在、すなわち純粋客体としての女(ファンム・オブジェ)である。ベルメールの人形は、「ありとあらゆる肉体の変形に適応するような」理想的なファンム・オブジェを実現する試みとして生まれたものである。>
この論点は、互いに相容れない二つの主張から成っている。
本来「子供の最初の形而上学」という言葉で澁澤が表そうとした主張は、
<ベルメールが彼の人形によって実現しようとしたのは、少女の肉体に隠された内部のメカニズムをあばき出そうとする仮借なき知的探求であった。>
ということである。このような視点から「解剖学」という言葉を思い浮かべることも可能だろう。
しかし、その一方で澁澤は、 「この人形の作者は、ともすると「デュッセルドルフの殺人鬼」や「斬り裂きジャック」の親類のような気がしないだろうか」 あるいは 「みずからの破壊の衝動をぶつけるべき一種の模擬物を発明した」 などといった「快楽殺人の代替行為」論とでも言うべき文章を続けて記した結果、論理の一貫性を損なってしまっている。
彼は、玩具を壊す子供の行為が、盲目的な破壊衝動によるものではなく、まさに形而上学的関心によるものであるというボードレールの主張を肯定的に紹介しながら、このような文章によってその主張を覆してしまっているのだ。
趣旨:<ベルメールは「不思議の国のアリス」の作者と同類の少女崇拝者である。ベルメールは一貫してファンム・アンファン(子供としての女)を描きつづけた。>
この論点は、「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」の段階では、以下の文章の中に萌芽として認められるものの、明瞭な形では現れていない。
スキャンダラスな人形製作の動機には、従妹の少女ウルスラへの後ろめたい恋情があったという。ナボコフの『ロリータ』によって創始されたニンフェット(小妖精)という観念が、たぶん、ベルメエルの少年時代からの妄執であったろう。このような或る意味無難な指摘が、なぜ「少女崇拝」などという論点にまで異常成長したのかは不明である。しかし、この論点が「自己愛」に関する考察を経由したものであることは、間違いないように思われる。
澁澤は、「アリスあるいはナルシシストの心のレンズ」で、ドジソン(=ルイス・キャロル)を評した英国の批評家ウィリアム・エンプソンの文章を以下のように肯定的に紹介している。
エンプソンはさらに書いている、「ドジソンは、ある意味では自分を少女(性的な安全性をもった)になぞらえ、ある意味では自分を少女の父(性的なものを包含しつくすことによって少女が父となる)になぞらえ、ある意味では自分を少女の愛人(つまり少女は母であることになる)になぞらえている」と。ここで注目されるのは、この文章の論理が少なくとも形式的には上述のベルメール・テーゼに一致していることである。このことから、一つの仮説として、ルイス・キャロルとベルメールとがベルメール・テーゼを介して結びつけられることによって本論点が導かれたのではないか、という推測が成り立つ。