このサイトを立ち上げた頃、私にとって、秋山まほこは謎の多い人形作家でした。早くに作品集を出し、その時点で既に独自の世界観を示した重要な存在であったにもかかわらず、その後の動向が分からなかったためでした。また、その作品からベルメールの影響については直感的に確信していたものの、その裏付けが得られていませんでした。しかし、或る対談の中で彼女がベルメールの名に言及しているのを見つけたとき、自分の直感を確認すると同時に、もっと詳しく知りたいと思いました。その後、機会があり、秋山氏から直接回答をいただくことができました。その内容(私信の一部)を以下に引用します。快く引用を認めて下さった秋山氏に深く感謝いたします。
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[コメント](暫定版)
「秋山まほこ 純 少女 遊戯」
女性作家の作品を目の前にした時、私はしばしば、ある種の途惑いを憶える。その途惑いは、その作品に強く惹かれるにもかかわらず、その魅力の依って来たる所がうまく把握できない事に起因する。秋山まほこの人形作品はその典型例かも知れない。彼女がベルメールの影響を受けていることを確信しながらも、私は、彼女の人形について具体的に語る手がかりを持てないでいた。
しかし、上掲の文章で彼女がベルメール作品について記しているキーワードと、彼女自身の表現について述べているキーワードを対比することによって、彼女の作品について考える糸口を見つけることができたような気がする。実際にここで比較してみよう。
[ベルメール]
彼の超越的な妄想、性の倒錯、狂気を含んだ幻想的な写真彩色、非現実的な人形のエロティシズム
[秋山まほこ]
淡い空想の性、仄かな性、人形達との空想の性、仄かな憧れと微かな目覚めの連想
彼女は、ベルメール作品が放つ<狂気すら含んだ倒錯的エロティシズム>の光を彼女自身のプリズムによって<思春期の入り口に立った少女の性の予感と目覚めの徴候>の表現へと変換したのだ。彼女は、ベルメールの性的オブセッションの表現に出会うことによって、彼女自身のオブセッションを表現する手がかりを得たのだ、と言えるかもしれない。
ここで、ベルメールとの出会いを経た彼女がどのように表現を展開していったかを追いかけてみる。
最初の作品集『Ange』(1991)において、彼女は、一枚一枚の写真に表現される世界全体を或る閉ざされた精神の場のように構成している。私はその作品世界に心を沿わせるとき、牛乳瓶の底から世界を覗いたときのような奇妙な捩れや揺らぎを感じる。それは人形の変則的な頭身や時に狂気を秘めた眼や秘儀のような遊戯行為によるものかも知れない。そこは私にとって一種の「異界」である。
一方、第一作品集の十数年後の作品集『ある瑠璃色の夜 金魚楼に招かれし乙女たちは』(2004)では、不思議な象徴的世界観は共通しているものの、何かしら安らぎを含んだノスタルジーや具体的な実在感を持った少女像が見られるようになったように感じられる。
そして、さらに最近の人形作品では、彼女のオブセッションは思春期直前の少女を表現する驚くほど高純度のイメージとして結晶するようになった。かつて彼女の写真作品の内部世界を支配していた彼女の精神場は個々の人形の内部に凝縮し、その人形は意志を持つ自立した存在として、開かれた世界の中に生きている。
純粋な少女。少女のイデア。これが彼女の到達点である。
そして、こう考えてみよう。人は<それまで生きてきた自分>から構成される玉葱のような存在なのだと。私の中では、紛れもなく思春期の私が一層の玉葱の皮のように私の部分として存在している。秋山まほこの人形に感応する私とは、そのような思春期の私なのかも知れない。
彼女の少女のイデアを体現する人形に出会うとき、私は、自分の住む世界とは少し位相の異なる世界に棲む少女という存在に途惑うかつての自分に引き戻されるのかも知れない。