(305x255mm, 112P) |
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瀧口修造の「ハンス・ベルメール断章」は、美しくそして難解な文章です。しかし、以下の文章を見ると、これが既に30年も前に書かれていたという事実に改めて驚かされます。 人形作者としてのベルメールは、孤独な原型人間のひとりとして出発することを宿命づけられていた。けれどなんと多くのそんな人たちが地上に彷徨していることだろう。不幸にも互いに知らず、視えぬ人形作者として・・・。 一方、次の澁澤龍彦の文章は、ベルメールの人形写真を一種の快楽殺人の代替行為として見る見方を代表しています。このような見解は、ベルメール評価における両極の一端に位置しています。ただし、ここで注意する必要があるのは、澁澤のベルメール評価は必ずしもすべての論点において首尾一貫しているわけではない、ということです。この点に関しては、「gq」第3号の欄で具体的に述べます。 子供の破壊の対象たる時計や玩具が、ベルメールの場合、そのまま女体に移行したと考えてよいかもしれない。しかも、彼は現実の犯罪者、たとえば「切り裂きジャック」のような性犯罪者たることを免れるべく、みずからの破壊の衝動をぶつけるべき一種の模擬物を発明した。それが人形であり、この人形を発明してから以後の彼の創作活動の一切は、デッサンも、版画も、グワッシュも、オブジェも、彼がその人形を前にして感じる肉体についての問題意識から派生しているのである。 |
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![]() 四谷シモン 「人形」 (写真=沢渡朔) |
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本誌特集「少女コレクション」の扉絵に使われた四谷シモンの「人形」は、1971年の雑誌 「黒の手帖」(第1巻第3号)の表紙や1973年の『アリスの絵本』の図版にも登場しました。このことは、この作品が高い評価を受けていたことを示しています。 −−−
澁澤龍彦は、「少女コレクション序説」において次のように述べています。 男たちの反時代的な夢は、「純粋客体としての古典的な少女のイメージ」をなつかしく追い求めるのである。 −(引用者による中略)− シュルレアリストたちの喜ぶファンム・アンファン(子供としての女)も、ハンス・ベルメールの関節人形も、そのような男の夢想の現代における集約的表現と考えて差支えあるまい。 当然のことながら、そのような完全なファンム・オブジェ(客体としての女)は、厳密にいうならば男の観念のなかにしか存在し得ないであろう。そもそも男の性欲が観念的なのであるから、欲望する男の精神が表象する女も、観念的たらざるを得ないのは明らかなのだ。要は、その表象された女のイメージと、実在の少女とを、想像力の世界で、どこまで近接させ得るかの問題であろう。女が一個のエロティックなオブジェと化するであろうような、生物学的進化の夢想によって、ベルメールが苦心の末に完成した人形も、つまるところ、こうした観念と実在とを一致させる一つの試みと見なすことができるかもしれない。 四谷シモンは、1965年のいわゆる「ベルメール・ショック」によって、「特定のテーマを表現する人形」という固定観念から解放されます。シモンの「物言わぬ顔の人形」は、その解放の論理的延長線上にあります。また同時に、それは、シモンにとって、上記のような澁澤龍彦の少女・人形論の具体化であったとも言えるかもしれません。 |
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(256x182mm, 190P) |
雑誌
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(305x255mm, 103P) |
雑誌
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本誌では、『枝状に刻み込まれた流し目』の複製を一冊分全ページ、トンボ付きで収録しています。澁澤龍彦の「ファンム・アンファンの楽園」は、いわばその紹介文としての役割を果たしています。 この生き生きとした、自由奔放な、女の子たちの薔薇色の楽園を眺めて、シュルレアリストたちの愛する「不思議の国のアリス」やブルトンの憧れるファンム・アンファン(子供としての女)を想像するのは、私たちの自由であろう。そういえば、ベルメールは70歳の老齢にいたるまで、一貫してファンム・アンファンを描きつづけた、稀有なる画家だった。 どうやらブルトンにとって、ファンム・アンファンとは、自然の化身であり、透視力をもった一種の巫女であり、愛の奇蹟を実現する妖精であり・・・・・・要するに、詩そのものなのである。そして私には、ベルメールの描いた愛すべき女の子たちも、ことごとく、このファンム・アンファンの一族なのではないかと思う。 これらの文章を彼の「ベルメールの人形哲学」(「gq」第1号の欄参照)の文章と比べてみると、そのあまりの落差に驚きます。彼は、つい数ヶ月前に、ベルメールの人形写真を一種の快楽殺人の代替行為として見る見方を示したばかりなのです。 |
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四谷シモン 「人形」 (写真=沢渡朔) |
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澁澤龍彦は、「アリスあるいはナルシストの心のレンズ」で以下のように述べています。 アリスとは、独身者の願望から生まれた美しいモンスターの一種であろう。その点で、アリスという少女は、ウンディーネやメリュジーヌのような妖精的、自然的な女(ユングのいわゆる危険な「アニマ」)の系譜に属するものというよりも、むしろ明らかにリラダンの想像したような、人工美女の系譜につながるものであろうと思う。 ここで、どうしても私が思い出さざるを得ないのは、もうひとりの二十世紀の少女崇拝者たる人形師ハンス・ベルメールである。 −(引用者による中略)− ドジソンが、もしベルメールの可憐な少女人形を眺めたら、どんなに狂喜するかは想像するにあまりがあろう。 ここで澁澤は、「アリス」をリラダン的な人工美女の系譜につながるものとした上で、ハンス・ベルメールを「少女崇拝者」と規定し、「独身者」ルイス・キャロル(=ドジソン)と同列に置いて論じています。しかし、私は、澁澤のこの見解に対しては疑問を持っています。 ハンス・ベルメールが、他のシュルレアリストと同様に「アリス」に関心を持っていたことは事実ですが、ベルメールが「少女崇拝者」であったとはとても思えません。「ベルメールの可憐な少女人形」と書くとき澁澤が思い浮かべていたのは、たとえば『人形』の写真No.3(ベルメール自身と一緒に写っている制作初期の人形)のようなイメージであろうと思われますが、言うまでもなく、これはベルメール作品のごく一面にすぎません。 |
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1982年版 ソフトカバー (初版はハードカバー、函) |
『エロティシズム』
<1982年版(1982.9.30)によるチェック> |
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雑誌 「ユリイカ」 臨時増刊号(第3巻13号) 総特集 エロティシズム (青土社, 1971.11.20)に、「エロティシズム小辞典」を加えて単行本化したもの。 |
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(256x182mm, 182P) |
雑誌
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この中では、とりわけ、種村季弘「人形貴種流離譚 −人形の無垢と不気味さ−」における論考が刺激的です。「恐怖と魅惑の綾なす人形の両義性」がどこから来るのか?神聖な偶像としての生い立ちから説き起こし、玩弄物さらには工業製品へと変転する人形の運命を跡づけながら、その真相を明かしていきます。そして、偶像としての人形を現在に甦らせようとしたのがシュルレアリストたちであったと指摘しています。 ベルメールが少女人形作りから作品活動を開始し、ポール・デルヴォーとキリコが人形のような女の肖像を描き、ダリ、エルンスト、マッソン、オスカー・ドミンゲス、セリグマンのような最盛期シュルレアリストがこぞって人形オブジェを制作しているという事実は社会的禁忌がなし崩しに見えなくなりつつある二十世紀の柔構造のなかで、その硬い輪郭のうちに古き禁忌の残酷な戦慄を鮮明に現前せしめる、再神話化=再魔術化の試みが依然として存在する消息を証すものであろう。 しかしながら、私はここのところで微かな違和感を覚えます。本当に、ベルメールは、自らの人形を呪術的なオブジェのような存在として意識していたのでしょうか? 少なくともベルメールは、「社会的禁忌がなし崩しに見えなくなりつつある二十世紀の柔構造のなかで、その硬い輪郭のうちに古き禁忌の残酷な戦慄を鮮明に現前せしめる」などと考えてはいなかったはずです。 また、この号には、表紙を初めとして四谷シモンに関するコンテンツが多く含まれています。
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