![]() (172x107mm, 254P) |
坂崎乙郎 口絵: 人形(写真) |
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ロマン派からシュルレアリスム、そして現代の幻想的レアリスム(ウィーン幻想派)などに至る幻想芸術の系譜と多岐にわたるテーマを総合的に解説した書物。私は、この本によって初めてハンス・ベルメールを知り、以下の文章によってその名を深く記憶に刻みました。 マルセル・ジャンは『シュールレアリスムの歴史』のなかで、ベルメールが一九三六年にパリを訪れたとき、まるで人形のように愛くるしい妻を伴っていたと書いているが、間もなくベルリンに帰ったベルメールはこの最愛の妻を病で失っている。かてて加えて、ナチスの芸術家弾圧はきびしく、ベルメールはすぐにパリに戻ったがこのとき彼の携えていたのがただ一冊のブルーの絹地の本で、ここにはベルメールの最初の衝撃的な「人形」の写真が収められていたというのである。マルセル・ジャンはその人形の顔が画家の今は亡き妻に瓜二つなのに驚かされた。もしも、マルセル・ジャンの記憶に誤りがなければ、ベルメールはこれらの人形を妻への愛をこめて分解・寸断したのではあるまいか。そう信じられるほどに、一見残忍な『人形』には細々とした配慮が感じられてならない。愛の繊細さがつたわってくるのである。 −(引用者による中略)− ベルメールが「人形」にどれほどの愛着をこめていたかは、私たちの感知しえない謎である。が、私たちもマルセル・ジャンの語るエピソードにより真実を受けとる感覚をすでにわがものとしてはいないだろうか。この意味からすれば、シュールレアリスムは単なる流派であることをやめて今日の私たちに実感として把握可能なのである。 年譜によれば、ベルメールは妻マルガレーテの存命中に既に写真集『人形』を出版しており、上記の見解には再検討が必要です。しかし、私は、このような文章から感じられる著者の人間に対する優しい眼差しと繊細な感性に深い共感を持ち続けています。 |
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雑誌
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種村季弘「反自然の苦痛 ハンス・ベルメール」は、「人形の解剖学者」と改題され、『影法師の誘惑』(冥草舎, 1974.9.25)、『種村季弘のラビリントス 2 影法師の誘惑』(青土社,1979.4.10)、『種村季弘のネオ・ラビリントス 4 幻想のエロス』(河出書房新社,1998.11.10)に収録されています。おそらくベルメールに関する種村の最も包括的な論考だと思われます。 |
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雑誌
![]() ハンス・ベルメール 人形写真(『人形の遊び』から) |
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坂崎乙郎 「イメージの変革〈14〉 ベルメール ― 精神の在処を告げる交合する肉体」
は、1972年に新潮選書として刊行された |
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山中散生 図版: No.159 『人形』仏語版表紙、No.160-162 『人形』より人形写真3点、No.163 『人形』よりデッサン1点、No.164 ベルメールの手紙 |
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本書は、ベルメールの活動開始期に関する貴重な情報を掲載しており、非常に参考になりました。 例えば、以下の文章は、1936年(ベルメールがパリのシュルレアリストグループに接触してから2年後)の動向を記しています。 一九三六年には、初めてオブジェだけの綜合展が、五月(二十二日−二十九日)に、パリのシャルル・ラットン画廊で開かれている。 −(引用者による中略)− 創作オブジェとしては、アルプ、ハンス・ベルメール、 −(引用者による中略)− など、シュルレアリスムのパリ・グループに属する詩人や画家をはじめ、イギリス、ドイツ、ベルギーその他の国からの参加作品で飾られている。 山中散生がパリのエリュアールらと文通を重ねながら日本にシュルレアリスムを紹介していた時期と、ベルメールが活動を開始した時期とがちょうど重なったことは、ベルメールの日本への紹介という観点からは、非常に幸運であったと言えるかもしれません。 |
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雑誌
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ゴルセン「ハンス・ベルメール ヘルマフロディトゥス的イメージのエロティシズム」は、澁澤龍彦編『エロティシズム』(青土社, 1973)に収録。 訳文に難があり、論旨が十分理解できていないので、コメントは後ほど。 |
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![]() (190x170mm, 250P) |
坂崎乙郎
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著者の『幻想芸術の世界』が、幻想芸術の系譜とテーマを総合的に取り扱ったのに対して、本書では12人の芸術家(ターナー/ダッド/クリムト/シーレ/エルンスト/ミショー/ジャコメッティ/ベルメール/ド・スタール/ヴンダーリヒ/クライン/ジョーンズ)を個別に取り上げて論じています。 著者が本書で用いた方法は、いうなれば、想像力を凝縮することによって自らを芸術家の内面にシンクロさせる、というものでした。そしてその結果として生まれたのが、シーレやエルンストの章に見られるような詩的表現と評論との完全な複合体でした。また、この試みが必ずしも完全には成功しない場合でも、水晶のようなきらめきを見せる深い洞察が生まれました。 ベルメールには線しか見当たらない。線はなんのためにあるのか、あのほそぼそとした線は。証言するためである。思い出を刻印するためである。線はヨーロッパ絵画の歴史にあっては、いつだって舞台の裏方である。 −(引用者による中略)− だが、細い鋭い線ほどに人間の苦痛をしかも生きながらえねばならないみじめさを適切に伝えうる媒体があるのだろうか。 ベルメールの具体的なイメージは何といっても人体である。人体はちょうど一つの文章を構成する文字のように、さまざまに言葉を変えて楽しむことが可能だ。ここで転移が行われ、自由自在な換骨奪胎がこころみられる。 著者は、ベルメールの章の最後のページに次のように書いています。 もとより、私はベルメールの作品を全的に支持する者ではないが、正直いって彼のエロティシズムの濃厚な画面ほど精神の在処を告げている例はない。 おそらく著者は、ベルメールを高く評価しながらも理解しがたい何かを感じていたのでしょう。ベルメールの精神圏に完全に同調することを妨げる何かを...。 |
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