ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響

− 球体関節人形を中心に −


 Introduction 

 Bellmer 

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(6) 文献データ 2

ハンス・ベルメール関連 [2]

 
「美術手帖」No.251

(208x148mm, 122P)

雑誌 「美術手帖」 4月増刊号(No.251) 特集 おもちゃ (美術出版社, 1965.4.15)

  • 澁澤龍彦 「玩具考」 (pp.1-3)

参考: 覚書2 「澁澤的ベルメール論のベルメール的迷宮」

   
「SD (スペースデザイン)」

(294x220mm, 140P)

雑誌 「SD (スペースデザイン)」 29号 特集・キュビズムとその時代 (鹿島研究所出版会, 1967.4.1)

  • 澁澤龍彦 「痙攣する女体の美 ハンス・ベルメール個展」 (pp.102-103)
    (「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」と題して『幻想の画廊から』に収録。)

    挿絵図版(絵画)10点: (1)マダム・エドワルダ (2)マダム・エドワルダ (3)夜ひらくバラ (4)頭足類 (5)マダム・エドワルダ (6)足蹴(マダム・エドワルダ) (7)擦り切れるまで (8)聖堂の女 (9)サスペンス (10)独りになる

参考: 覚書2 「澁澤的ベルメール論のベルメール的迷宮」

   
「幻想の画廊から」

澁澤龍彦 『幻想の画廊から』 (美術出版社, 1967.12.20)

  • 「女の王国 デルヴォーとベルメエル」 (pp.23-37) [初出: 「新婦人」 (1965.3)]

    挿絵図版: No. 29-34 人形(写真)、 No.35 バタイユ『眼の物語』のための挿絵、 No.36 デッサン、 No.37 「踵の先」、 No.38 「相互浸透」、 No.39-42 デッサン、No.43 「青い目」デッサン、 No.44 「夜ひらく薔薇」デッサン

  • 「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」 (pp.38-43) [初出: 「SD (スペースデザイン)」 29号 (1967.4.1)]

    挿絵図版: No. 45-49 『イメージの解剖学』より、 No.50 デッサン

  • 「人形愛 あるいはデカルト・コンプレックス」 (pp.212-222) [初出: 「SD (スペースデザイン)」 19号 (1966.7)]

    挿絵図版: No. 279 人形(写真)

  • 「玩具考 古き魔術の理想」 (pp.223-229) [初出: 「美術手帖」 No.251 (1965.4.15)]

 澁澤龍彦の最初の美術エッセー集。主にマニエリスムからシュルレアリスムまでの画家を個別に論じたエッセーからなっています。モノクロながら貴重な図版が豊富に配され、ちょっとした画文集の趣があります。 [残念ながら、後に出版された新版(青土社, 1979)では、これらの図版が大幅にカットされています。また『澁澤龍彦全集』も青土社版を踏襲しています。]

 「新婦人」に掲載された「女の王国」が四谷シモンに衝撃を与えたことは良く知られていますが、この段階では、ベルメールの紹介程度にとどまっており、この後の「イメージの解剖学」が初めての本格的な論考となりました。そして、ここにおいて既に、澁澤のベルメール評価の核心が述べられています。

 すべての人形愛好者にとってと同じく、ベルメエルにとっても、女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり、無意識の近親相姦コンプレックスの対象であり、そしてまた、隠された強烈な自己愛の変形であったに違いないからである。
(p.41)

 これとほとんど同じ文章が『幻想の彼方へ』(1976)の「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」(p.72-87)に見られます。

 ところで、ここで語られる「人形愛好者」とは澁澤自身に他ならず、彼はベルメールについて語る過程で、実は彼自身の事を語っていたのではないでしょうか?

 また、以下に引用する「玩具考」の一節では、当サイトの主題に関わる非常に重要な問題が提起されています。「ベルメールとアニミズム」という問題です。

 むしろ、わたしは、昔のアニミズムを復活させた、ハンス・ベルメエルのエロティックな「関節人形」に注目したい。これは芸術の正統から最も遠いものであり、玩具の無道徳、無倫理に最も近いものであるといえる。
 エジプトの墳墓に副葬された、女のすがたを象った人形のなかには、足のないもの、あるいは足に鎖をはめたものがあったという。これは、人形をして墓から逃げ去らしめないための処置であろうと見られており、ここから、人形には霊があると信じられていたことが、学者によって説明されてもいる。霊のある人形は、恐怖の対象であり、神聖なオブジェであって、みだりにもてあそんでよいものではあり得なかった。ということは、それが同時にエロティックの対象でもあったことを示していよう。(ベルメエルの人形は、鎖の代りに、靴下をはいていることがある。)
(p.227)

 澁澤は、ここで、ベルメールの人形をアニミズム的であると明確に断じています。ただ、その根拠は示されていません。

参考: 覚書2 「澁澤的ベルメール論のベルメール的迷宮」

   
「みづゑ」766号

(294x224mm、87P)

雑誌 「みづゑ」 766号 特集 生きている前衛・瑛九の全貌/近藤弘明/ハンス・ベルメール (美術出版社, 1968.11.3)

  • 澁澤龍彦 「<連載>人工楽園の渉猟者たち ハンス・ベルメール 肉体の迷宮」 (p.62-81)
    (「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」と題して『幻想の彼方へ』に収録。)

    挿絵図版30点: (1)ベルメールのポートレイト (2)「人形」(写真) (3)「人形」(写真) (4)「人形」(写真) (5)「人形」(写真) (6)「人形」デッサン (7)「虹の頭足類」(油彩) (8)「ナポレオン3世の大きな椅子」(グワッシュ) (9)「ナポレオン3世の大きな椅子(部分)」(グワッシュ) (10)「人形」(木と紙) (11)「人形」(写真) (12)「人形」(木と金属) (13)「人形」(アルミニウム) (14)「女の渦巻き」(油彩) (15)「風景1800」(デッサン) (16)「あわれなアン」 (17)「黄色い室内」(油彩) (18)デッサン (19)「常識」(デッサン) (20)「バラの頭」(デッサン) (21)「意識の流れ」(エッチング) (22)「自画像」(グワッシュ) (23)デッサン (24)デッサン (25)デッサン (26)「マダム・エドワルダ 挿絵」(銅版) (27)デッサン (28)デッサン (29)「青い目」(デッサン) (30)デッサン

挿絵(p.64)p.64   挿絵(p.68)p.68
・p.64: (4)「人形」(写真)[左上] (5)「人形」(写真)[左下] (6)「人形」デッサン[右]
・p.68: (10)「人形」(木と紙)[左上] (11)「人形」(写真)[右上] (12)「人形」(木と金属)[左下] (13)「人形」(アルミニウム)[右下]

 日本におけるベルメール論の中で、澁澤龍彦の一連のエッセイは、とりわけ論点の多様さ・豊富さという点で群を抜いた水準を示しています。そのなかでも「ハンス・ベルメール 肉体の迷宮」にはそれらの論点の多くが集約されており、澁澤的ベルメール論の白眉と言えます。 ...そして、それ故に、澁澤的ベルメール論が孕む矛盾もまたここに明瞭に現れています。

肉体に対するベルメールの仮借なき探求は、ちょうど好奇心の強い子供が、時計や玩具や人形をこわして、その内部のメカニズムをあばき出そうとする熱意に似たものを感じさせるではないか。肉体の迷宮とは、まことに言い得て妙である。
 あえて言うならば、ベルメールが31歳当時から制作を開始した、あのスキャンダラスな人形は、現実生活では殺人のみが実現してくれるであろうようなものを、想像の世界で実現せんとする試みにほかならなかったのである。子供の破壊の対象たる時計や玩具が、ここでは生身の人間、少女と同一化される。   −(引用者による中略)−   ベルメールのように、純粋に想像の世界で破壊の夢を満たしていたのは、18世紀のサド侯爵であろう。「サドもまた、ありふれた一つの経験から出発している」とバタイユが述べている。「すなわち、肉欲とは、単に対象が現前するだけでなく、対象の変形が可能となる時に目ざめさせられるものだということである」と。
 ベルメールは人形を作っているというよりも、むしろ人形を壊しているという感じがしないだろうか。桃色や黄色の光をあてられ、靴下やシュミーズやレースの散乱するなかに置かれた人形は、なにか色情的な犯罪現場の遺棄屍体といった感じがしないだろうか。この人形の作者は、ともすると「デュッセルドルフの殺人鬼」や「斬り裂きジャック」の親類のような気がしないだろうか。
(pp.65-66)

 この文章で最初に述べられている子供の好奇心について、澁澤は「ベルメールの人形哲学」において、ボードレールの『玩具のモラル』を引きながら「子供の最初の形而上学的傾向」と呼んでいます。「形而上学」という限り、これは世界と自己との存在に関する知的な関心を意味するはずです。このような意味において、ベルメールを例えば「イメージの解剖学者」と呼ぶことは妥当である、と私は考えます。しかし、これがどのような論理で「色情的な犯罪」や「斬り裂きジャック」に繋がるのか、私には全く理解できません。

また、
 ジェレンスキーの質問に答えて、ベルメールは次のように言ったそうである。「バタイユのなかで私の気に食わない点は、覗見症者のようにどこにでも神が存在しているということだ」と。この答えはたいそう暗示的である。ベルメールはバタイユのように、神への郷愁をいっかな感じない。ということは、彼が自分の欲望を、神に対する叛逆、つまり侵犯のなかで実現しようとしているのではなく、むしろイノサンス(無垢)のなかで実現したいと願っている、ということだろう。「私の作品がスキャンダラスである原因は、私にとって世界が一つのスキャンダルだからだ」ともベルメールは言っている。
(p.66)
 現代芸術は幾多の幻覚的な絵画やオブジェを生み出したが、ベルメールの人形は、そのなかでも最も強力な、最も刺激の強烈なものだと私は思う。それはイメージというよりも、オブジェというよりも、むしろ一種のフェティッシュ(呪物)であり、偶像であるような気が私にはする。子供が愛撫する人形のような、原始民族が崇拝する呪物のような、なにか芸術を踏み越えた危険な魅惑が、そこから放射されているような気がする。肉体の迷宮を踏み迷うベルメールの執念には、人類が遠い過去の闇の中に忘れてきた、あの呪術に似た願望がひそんでいるような気さえする。
(pp.66-67)

神的(霊的)な存在を徹底的に否定するベルメールの言葉を引用しながら、その作品に対して、「昔のアニミズムを復活させた」1)と評し、「それはイメージというよりも、オブジェというよりも、むしろ一種のフェティッシュ(呪物)であり、偶像であるような気が私にはする」と言う矛盾。
 
 澁澤もまた、暗い迷宮の中を彷徨っていたのではないでしょうか?

参考: 覚書2 「澁澤的ベルメール論のベルメール的迷宮」


 また、本誌に掲載された30点にも及ぶ図版は、澁澤の文章を理解するヒントを与えてくれます。

 例えば、以下に示す文章は、明らかに上掲の図版(10)(11)に対応しています。

 環節によって繋がった脚と胴体。胴を中心として、上半身も下半身も脚である。その伸びあがった脚のあいだから覗いている女の首。あるいは、そこに首がなくて、少女めいた陰部の溺孔が深く刳れている、環節によって痙攣的に身をよじらせた人形は、おおむね裸体であるが、パンティをはいていることもあり、ストッキングやソックスをはいていることもある。 
(「玩具について」(『夢の宇宙誌』))

ここから、「痙攣」という言葉を澁澤がどのようなイメージで捉えていたかが判ります。一般に痙攣の症状には、「硬直性」(全身的な筋収縮および硬直)と「間代性」(激しいリズミカルな筋収縮および弛緩)とがありますが、澁澤の「痙攣」は明らかに前者の症状に対応しています。

 以下に示すように、「痙攣」という表現は、澁澤ベルメール論において非常に重要な位置を占めています。

 ポオル・デルヴォーの描く裸婦の標識が、そのみごとな陰毛であるとすれば、現代が産んだもう一人のエロティックな画家、ハンス・ベルメエルの女の標識は、おそらく、その肉体のスパスム(痙攣)であろう。
−(引用者による中略)−
 人形の場合も、グラフィックの場合も、ベルメエルの扱う対象はもっぱら女であり、女の肉体のスパスムである。
−(引用者による中略)−
 「女は自己の内部に、おそろしいスパスムを生ぜしめることの可能な一つの器官をもっている」といったのは18世紀の哲学者ディドロであるが、ハンス・ベルメエルは、初めてこのスパスムの美学の規範をつくったのである。ブルトンの「女の王国」はここにもあったのだ。
(「女の王国 デルヴォーとベルメエル」(『幻想の画廊から』))
<美は痙攣的になるだろう>と言った、アンドレ・ブルトンの言葉をそのままに、痙攣する女体の美を表現したこの画家は真に現代的な、両極性をはらんだ先鋭な自我の持ち主だった。
(「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」(『幻想の画廊から』))
澁澤が用いている「痙攣」という表現の起源がアンドレ・ブルトンにあることは間違いないでしょう2)。しかし、澁澤の「痙攣」は、はたしてブルトンのそれ3)と同じだったのでしょうか? この点は、検討の必要があるように思われます。


[註]

1) 「玩具考」(『幻想の画廊から』)

2) 澁澤が「女の王国 デルヴォーとベルメエル」のなかで引いているディドロの言葉も、ブルトンらシュルレアリスト・グループが編集した「エロティシズム小辞典」に見られる。「エロティシズム小辞典」の和訳は、澁澤龍彦(編)『エロティシズム』(青土社,1973)の巻末に収録されている。

3) 例えば、アンドレ・ブルトン『ナジャ』(訳=巖谷國士)(白水社, 1989.5.15)には、「間代性」の痙攣を示唆しているように思われる文章が見られる。

美とは、リヨン駅でたえず息をはずませ、だが決して出発しようとはしない、すでに出発してもいない、と私にわかる汽車のようなものだ。美とは発作的衝撃のつながりから成るものだ、その発作の多くはあまり大したことがなくても、私たちはそれらがいつかひとつの発作を導き、それが重要なものになることを知っている。  −(引用者による中略)−  美、動的でもなければ静的でもないもの。人間の心、地震計のように美しいもの。    (p.162)
美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。    (p.163)


2003年8月15日更新 (2001年12月23日公開)
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