(208x148mm, 122P) |
雑誌
|
(294x220mm, 140P) |
雑誌
|
![]() |
澁澤龍彦
|
|
澁澤龍彦の最初の美術エッセー集。主にマニエリスムからシュルレアリスムまでの画家を個別に論じたエッセーからなっています。モノクロながら貴重な図版が豊富に配され、ちょっとした画文集の趣があります。 [残念ながら、後に出版された新版(青土社, 1979)では、これらの図版が大幅にカットされています。また『澁澤龍彦全集』も青土社版を踏襲しています。] 「新婦人」に掲載された「女の王国」が四谷シモンに衝撃を与えたことは良く知られていますが、この段階では、ベルメールの紹介程度にとどまっており、この後の「イメージの解剖学」が初めての本格的な論考となりました。そして、ここにおいて既に、澁澤のベルメール評価の核心が述べられています。 すべての人形愛好者にとってと同じく、ベルメエルにとっても、女はイヴのように男の体内から出てきた存在であり、無意識の近親相姦コンプレックスの対象であり、そしてまた、隠された強烈な自己愛の変形であったに違いないからである。 これとほとんど同じ文章が『幻想の彼方へ』(1976)の「ハンス・ベルメール、肉体の迷宮」(p.72-87)に見られます。 ところで、ここで語られる「人形愛好者」とは澁澤自身に他ならず、彼はベルメールについて語る過程で、実は彼自身の事を語っていたのではないでしょうか? また、以下に引用する「玩具考」の一節では、当サイトの主題に関わる非常に重要な問題が提起されています。「ベルメールとアニミズム」という問題です。 むしろ、わたしは、昔のアニミズムを復活させた、ハンス・ベルメエルのエロティックな「関節人形」に注目したい。これは芸術の正統から最も遠いものであり、玩具の無道徳、無倫理に最も近いものであるといえる。 澁澤は、ここで、ベルメールの人形をアニミズム的であると明確に断じています。ただ、その根拠は示されていません。 |
|
(294x224mm、87P) |
雑誌
p.64
p.68
・p.64: (4)「人形」(写真)[左上] (5)「人形」(写真)[左下] (6)「人形」デッサン[右] ・p.68: (10)「人形」(木と紙)[左上] (11)「人形」(写真)[右上] (12)「人形」(木と金属)[左下] (13)「人形」(アルミニウム)[右下] |
|
日本におけるベルメール論の中で、澁澤龍彦の一連のエッセイは、とりわけ論点の多様さ・豊富さという点で群を抜いた水準を示しています。そのなかでも「ハンス・ベルメール 肉体の迷宮」にはそれらの論点の多くが集約されており、澁澤的ベルメール論の白眉と言えます。 ...そして、それ故に、澁澤的ベルメール論が孕む矛盾もまたここに明瞭に現れています。 肉体に対するベルメールの仮借なき探求は、ちょうど好奇心の強い子供が、時計や玩具や人形をこわして、その内部のメカニズムをあばき出そうとする熱意に似たものを感じさせるではないか。肉体の迷宮とは、まことに言い得て妙である。 この文章で最初に述べられている子供の好奇心について、澁澤は「ベルメールの人形哲学」において、ボードレールの『玩具のモラル』を引きながら「子供の最初の形而上学的傾向」と呼んでいます。「形而上学」という限り、これは世界と自己との存在に関する知的な関心を意味するはずです。このような意味において、ベルメールを例えば「イメージの解剖学者」と呼ぶことは妥当である、と私は考えます。しかし、これがどのような論理で「色情的な犯罪」や「斬り裂きジャック」に繋がるのか、私には全く理解できません。 また、ジェレンスキーの質問に答えて、ベルメールは次のように言ったそうである。「バタイユのなかで私の気に食わない点は、覗見症者のようにどこにでも神が存在しているということだ」と。この答えはたいそう暗示的である。ベルメールはバタイユのように、神への郷愁をいっかな感じない。ということは、彼が自分の欲望を、神に対する叛逆、つまり侵犯のなかで実現しようとしているのではなく、むしろイノサンス(無垢)のなかで実現したいと願っている、ということだろう。「私の作品がスキャンダラスである原因は、私にとって世界が一つのスキャンダルだからだ」ともベルメールは言っている。 現代芸術は幾多の幻覚的な絵画やオブジェを生み出したが、ベルメールの人形は、そのなかでも最も強力な、最も刺激の強烈なものだと私は思う。それはイメージというよりも、オブジェというよりも、むしろ一種のフェティッシュ(呪物)であり、偶像であるような気が私にはする。子供が愛撫する人形のような、原始民族が崇拝する呪物のような、なにか芸術を踏み越えた危険な魅惑が、そこから放射されているような気がする。肉体の迷宮を踏み迷うベルメールの執念には、人類が遠い過去の闇の中に忘れてきた、あの呪術に似た願望がひそんでいるような気さえする。 神的(霊的)な存在を徹底的に否定するベルメールの言葉を引用しながら、その作品に対して、「昔のアニミズムを復活させた」1)と評し、「それはイメージというよりも、オブジェというよりも、むしろ一種のフェティッシュ(呪物)であり、偶像であるような気が私にはする」と言う矛盾。 (参考: 覚書2 「澁澤的ベルメール論のベルメール的迷宮」) また、本誌に掲載された30点にも及ぶ図版は、澁澤の文章を理解するヒントを与えてくれます。 例えば、以下に示す文章は、明らかに上掲の図版(10)(11)に対応しています。 環節によって繋がった脚と胴体。胴を中心として、上半身も下半身も脚である。その伸びあがった脚のあいだから覗いている女の首。あるいは、そこに首がなくて、少女めいた陰部の溺孔が深く刳れている、環節によって痙攣的に身をよじらせた人形は、おおむね裸体であるが、パンティをはいていることもあり、ストッキングやソックスをはいていることもある。 ここから、「痙攣」という言葉を澁澤がどのようなイメージで捉えていたかが判ります。一般に痙攣の症状には、「硬直性」(全身的な筋収縮および硬直)と「間代性」(激しいリズミカルな筋収縮および弛緩)とがありますが、澁澤の「痙攣」は明らかに前者の症状に対応しています。 以下に示すように、「痙攣」という表現は、澁澤ベルメール論において非常に重要な位置を占めています。 ポオル・デルヴォーの描く裸婦の標識が、そのみごとな陰毛であるとすれば、現代が産んだもう一人のエロティックな画家、ハンス・ベルメエルの女の標識は、おそらく、その肉体のスパスム(痙攣)であろう。 <美は痙攣的になるだろう>と言った、アンドレ・ブルトンの言葉をそのままに、痙攣する女体の美を表現したこの画家は真に現代的な、両極性をはらんだ先鋭な自我の持ち主だった。澁澤が用いている「痙攣」という表現の起源がアンドレ・ブルトンにあることは間違いないでしょう2)。しかし、澁澤の「痙攣」は、はたしてブルトンのそれ3)と同じだったのでしょうか? この点は、検討の必要があるように思われます。 [註] 1) 「玩具考」(『幻想の画廊から』) 2) 澁澤が「女の王国 デルヴォーとベルメエル」のなかで引いているディドロの言葉も、ブルトンらシュルレアリスト・グループが編集した「エロティシズム小辞典」に見られる。「エロティシズム小辞典」の和訳は、澁澤龍彦(編)『エロティシズム』(青土社,1973)の巻末に収録されている。 3) 例えば、アンドレ・ブルトン『ナジャ』(訳=巖谷國士)(白水社, 1989.5.15)には、「間代性」の痙攣を示唆しているように思われる文章が見られる。 美とは、リヨン駅でたえず息をはずませ、だが決して出発しようとはしない、すでに出発してもいない、と私にわかる汽車のようなものだ。美とは発作的衝撃のつながりから成るものだ、その発作の多くはあまり大したことがなくても、私たちはそれらがいつかひとつの発作を導き、それが重要なものになることを知っている。 −(引用者による中略)− 美、動的でもなければ静的でもないもの。人間の心、地震計のように美しいもの。 (p.162) 美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。 (p.163) |
|