(256x190mm, 81P) |
雑誌
|
|
山中散生による「ベルメエルの人形幻想」は、現時点までの調査の範囲では、日本で最初の纏まったベルメール論だと思われます。この文章が書かれた時期は、「海外超現実主義作品展」を契機に昂揚した前衛美術運動が軍部の露骨な統制によって終息させられるまでの短い期間に対応しています。この時期、既に同盟国ドイツでは、1937年の「退廃美術展」に象徴されるように、近代美術に対する徹底的な弾圧が行われていました。日本の美術家や批評家は、このドイツの動向に注目し、これを日本でも将来起こり得る事態と考えて、強い危機感を抱きながら活動していました。 彼は自分の作品について「多色模様のネオンサインによつて腹の奥に啓示されたパノラマ」と述べてゐるが、これは彼が人形を解体し、形成し、且、あらゆる局面から眺め、発展せしめることによつて得られるべき彼の人形幻想である。即ち、(一)、人形を形成してゐる各部分は、自由に取外しが出来ること、(二)、そのいづれの部分も一個の作品的価値を要求し得ること、(三)、それからの部分はお互ひにあらゆる方法で結合せられ得ること、(四)、その人形に種々なる背景を与へることによつて、非常に異なつた感覚が与へられること、等に依つて彼が人形に与へるむしろサディスティックな愛は、徹底的に完成せられるのである。しかもこの第四の場合は、彼の人形がその石膏の臭気から、或は繊細な画筆の線から脱れて、不思議な第四次元の世界に飛び込む試みであつて、ここにカメラを向けることに依つて、写真家としての彼の位置が確保されるのである。 山中散生は、ここで写真家としてのベルメールを明確に位置付けています。このような観点は、人形作家あるいは画家としての側面がクローズアップされるにつれて後方に退いていきます。しかし、ベルメールの人形作品が写真撮影という作業によって初めて完結するという事実に、もっと注目する必要があるのではないでしょうか。 また、後にしばしば引用されるベルメールの文章がここでも引かれています。ベルメールの創作の原点が、権威化された「有用性」という価値に対する彼のアンチテーゼであったことは、現在ではほぼ共通認識になっていますが、既にこの時点で山中がこの観点の重要性に注意を向けていたことがわかります。
また、以下の文章は、ベルメールのSecond Dollの写真や詩画集『枝状に刻みこまれた流し目』について言及しており、当時の中山がベルメールの活動をほとんどリアルタイムに把握していたことを示しています。
|
|
(289x206mm, 85P) |
雑誌
![]() 宙吊りにされた人形 (p.47) |
|
本誌の「特集・芸術とエロス」では、1959年12月からパリで開催された「シュルレアリスム国際展」が紹介されています。ベルメールは、この展覧会に人形を出品しました。本特集の図版でベルメールの作品が3点もの写真で紹介されていることは特筆に値します。 ところでこの展覧会の展示は3部にわかれ、第1部は<昨日>の部で、アルプ、キリコ、エルンスト、タンギー、ピカビア、ゴルキー、マッソン、エロルド、マグリット、ブラウネル、ベルメール、マッタなどの旧作であり、そのなかには、すでにグループと久しく訣別している作家たちも混っている。また、秋山邦晴は、実際に展覧会を見た感想を次のように記しています。 個々の作品については、ずいぶん他愛のないあそびや、すっかり色褪せた幻想が額ぶちのなかで、楽天的な夢物語りをおしゃべりしている作品も多かった。たとえば、天井からぶらさげられた6本足のマヌカンが、床の鏡にはじらっているハンス・ベルメールのオブジェや、ミッキー・スピレーンのフランス版表紙絵といったトルイユの薄手のイマージュなどの想像力の涸枯状態に失望させられた作品がおおかったのである。 たしかに、この作品には、かつての人形写真に見られた性と死の衝撃的なイメージはありません。しかし、戦後制作された銅版画(『眼球譚』、『マダム・エドワルダ』、『サドに』)等を見るならば、当時のベルメールが想像力の涸渇状態にあったどころか、ますます凄みの度を加えていたことが感じられます。 |
|
(259x180mm, 164P) |
雑誌
|
|
澁澤龍彦の短編小説『人形塚』は、本誌に掲載された後は単行本にも収録されず、澁澤龍彦全集第3巻に補遺として収めらるまで日の目を見ることのなかった文字通り忘れられた作品です。しかし、この小説こそが、澁澤の最初の本格的なベルメール論と言うべき作品であり、「イメージの解剖学 ふたたびベルメエル」(1967.4)以降のエッセイで論じられた論点の多くが既に明瞭な形で現れています。(ただし、ベルメールの名前は出てきません。) |
|
(206x149mm, 230P) |
澁澤龍彦
|
|
本書は、各章のタイトル(「玩具について」、「天使について」、「アンドロギュヌスについて」、「世界の終わりについて」)に象徴されるように、澁澤龍彦の精神の領土「ドラコニア」の原型ともいえる書物です。 「玩具について」では、カバラのゴーレムや錬金術のホムンクルスから、遊戯機械や自動人形へと至る西洋美術と科学技術のいわば裏の歴史を広範に論じつつ、その中にベルメールの人形を位置付けてみせます。 造形美術の場合、リアリズムの概念は、極端まで行くと奇妙な歪みを起こす。彼らが正統の美術界から締め出しを食っているのも、故なしとしない。 人間に酷似していて、しかも人間ではない存在を創り出すこと、現実の精巧な模造品を生み出すこと、 ―― これこそ古来の練金道士の密かな形而上学的な夢であり、人形作りは、芸術の本道を踏みはずすことすら怖れずに、この昔ながらの願望を小規模に安っぽく実現するのである。彼らにとっては、芸術的歓喜よりも、この安っぽい実現の方が、遙かに大きな歓喜なのである。 各時代のデカダンスは、大なり小なり、それぞれその時代に固有な自動人形、遊戯機械を所有したにちがいない、 さらに、彼らのなかに、過去何年来というもの、人形に異常な関心をもちつづけているオブジェの製作者があることをつけ加えれば、わたしの今までの主張は、ますます確かな裏づけを得ることにもなろう。シュルレアリスムが、おのれのマニエリスムの端的な標識として掲げてもよいと思われる、その偏執的な画家の名は、ハンス・ベルメエルという。 上掲の文章は、澁澤の最初期のベルメール論1)です。ここで重要な概念として用いられているのが、「マニエリスム」です。この背景には、当時の欧米におけるマニエリスム美術史研究の高潮が存在しているものと思われます。 ただし、ここで用いられているマニエリスム概念は、美術史的に定義される(エポックとしての)「マニエリスム」ではなく、これを澁澤流に拡大解釈したものである事に注意する必要があります。 マニエリスムとはルネサンスとバロックとの端境期に現れた美術の一様式であり、盛期ルネサンスの模範的技法(マニエラ)を唯一の規範とすることによって、結果的に、奇妙に歪んだ表現様式に行き着いてしまったものです。この様式に属する作品では、人体の等身、遠近法、明暗のコントラストなどの誇張的表現、あるいは謎めいた主題などが特徴として見られます。 いずれにしても、澁澤のベルメール論は、全て学術論文ではなくエッセイとして書かれたものであり、厳密な論述を求めるのは、そもそも筋違いかもしれません。 当サイトでは、澁澤のベルメール論の意義を歴史的に評価すると同時に、その論点を批判的に読み込むことを目指したいと思います。これが、日本へのベルメールの紹介に最も大きな役割を果たした澁澤龍彦に対する、当サイト流の敬意の表し方です。 [註] 1) 澁澤は、『あんま−愛欲を支える劇場の話』(土方巽DANCE EXPERIENCEの会, 1962.11)の巻頭に収録された「彼女は虚無の返事を怖れる」で初めてベルメールに論及した。これを最初のベルメール論とするなら、「玩具について」は二番目となる。 2) グスタフ・ルネ・ホッケ 『迷宮としての世界』。原著の出版年は1959年。日本語訳は、種村季弘・矢川澄子共訳で、美術出版社より1966年に刊行された。当時、澁澤龍彦は訳者の矢川澄子と結婚していた。 3) 少なくとも澁澤の最晩年の著作 『裸婦の中の裸婦』では、このようなマニエリスム観は姿を消している。私は、この初期の澁澤的マニエリスム観は、この後の若桑みどりの学術的研究( 『マニエリスム芸術論』(岩崎美術社,1980))等によって、完全に相対化されたと考えている。 4) この当時の日本の学会の状況については、若桑みどり 「註のない文章について」(「ユリイカ」臨時増刊 総特集・澁澤龍彦,(青土社,1988),pp.190-193.)や『マニエリスム芸術論』(ちくま学芸文庫,1994)の「文庫版へのあとがき」から詳しく知ることが出来る。
5) ジョルジュ・バタイユは1961年刊行の『エロスの涙』において次のように記すとともに、ベルメールの作品を他のシュルレアリストの作品とともに掲載した。(ただし、本文ではベルメールに言及していない。)[以下の引用は、樋口裕一の訳(トレヴィル,1995.2.25)から。]
|
|