ハンス・ベルメール:日本への紹介と影響

− 球体関節人形を中心に −


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(2) Hans Bellmer (1902-1975)

ポートレート
photographed by Franz Hermesmeyer

ハンス・ベルメール 画家、人形作家にして写真家。

―― はぐれ者のシュルレアリスト。 イメージの解剖学者。 線の魔術師。

一つの伝説がある。

1934年、パリのシュルレアリストたちは、一人の女子学生が持ち込んだ一綴りの写真集に目を瞠った。それは、ドイツに住む彼女の従兄が自費出版した人形の写真集であった。 少女人形の制作のドキュメントから、性と死の表現へと移行していく写真のシリーズ。...当時、まだ全く無名であったその作者の名は、ハンス・ベルメール


A Biographical Sketch

<人形制作前夜まで>

1902年 3月13日、ドイツ領カットヴィッツ(現ポーランド領カトヴィツェ)に生まれる。
 父親は優秀なエンジニアであったが厳格なプロテスタントでもあり、また家庭では「暴君」であった。その抑圧的な姿勢をハンスと弟のフリッツは怖れ憎悪した。一方、母親は優しく豊かな愛情を子供たちに注いだ。このような家庭環境は、ベルメールの中に、抑圧的な権威に対する強い反発と、遊戯や玩具といった小児的世界に対する愛着とを育てていく。

1921年、父親に対する反抗のさなかに、ギムナジウムの卒業試験に合格。その後、製鋼所、次いで炭坑に働きに出される。彼の反抗的な態度の矯正が目的であった。しかし、そこでの経験をきっかけに、社会主義思想に接近する。

この頃、ゾラ、フローベル、ハイネ、ボードレール、ポー、ワイルドなどを読み始める。同時に、キリコ、エルンスト、アルプ、グロッスらの絵画を発見し、ダダ運動に興味を持ち始める。

1923年、ベルリン工科大学に入学。エンジニアリングを学ばせようという父親の意向であった。

1924年、ベルリン・ダダの画家ゲオルグ・グロッス(ジョージ・グロス)らと交際を始め大学を中退。グロッスの紹介で、ダダイストのヴィーラント・ヘルツフェルデが設立したMalik出版社の印刷工となる。同時に本の表紙絵や挿絵を手掛ける。

年末から翌1925年にかけて、3ヶ月間パリに滞在する。そこでデ・キリコに面会。また、パスキンやスーラの作品に強い興味を持つ。当時、パリではダダ運動が終息し、シュルレアリスムが勃興していた(1924年10月15日、アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』出版)。しかし、ベルメールがパリのシュルレアリスト・グループと接触するまでに、さらに10年の年月が必要である。

1925年、人形作家ロッテ・プリッツェルと知り合う。彼女はハンスのかかりつけの医者の妻であり、主に小型の蝋人形を制作していた。彼女は、画家のオスカー・ココシュカから等身大の人形の制作を依頼されたことがあった(1918年)。最終的に彼女はこのプロジェクトを断念したが、ベルメールはこの話を魅入られたように聴いていたという。

1926年、生計を立てるため、ベルリン郊外のカールスホルストにデザイン事務所を開く。彼の才能は早くから認められ、事務所の経営は順調だったが、彼の芸術家としての表現欲が満たされることはなく、折からのナチズムの隆盛の中で鬱々とした日々を過ごしていた。

1928年、当時22歳のマルガレーテ・シュネルと知り合い結婚。彼女は病弱だが魅力的な女性であり、二人は幸福な結婚生活を送る。

この頃、ベルメールはカイザー・フリードリヒ美術館で多くの時間を過ごし、特に中世・ルネッサンスの絵画に関心を持つ。

1930年、妻を伴いカールスルーエの両親の元を訪れる。ここで、ベルメールは、ほとんどの時間を絵を描いて過ごした。近くの孤児院の少女たちをモデルにしたデッサンが幾つか残されている。

また、そこにはベルメールの母方の叔母の家族も滞在していた。そしてそこでベルメールの眼を捉えたのが、15歳の従妹ウルスラであった。彼には、彼女が、かつて彼の「秘密の花園」で一緒に遊んだ少女たちの生まれ替わりのように思えた。...しかし少女は成長する。評伝は、後のベルメールとウルスラとの微妙な関係を遠回しに記している。

1931年、父親が脳溢血を起こして退職。これを機に、両親や従妹ウルスラの家族がベルリンに移って来ることになる。引越しの際、母親が送ってよこしたベルメールの子供時代のおもちゃ箱から強烈な印象を受ける。

1932年、妻の肺結核の療養のため、チュニジアとイタリアを旅行。帰途、コルマールでグリューネヴァルトの「イーゼンハイム祭壇画」を見て深い感銘を受ける。 年末、マルガレーテ、フリッツ、ウルスラを連れてオッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」(マックス・ラインハルト演出)を観劇する。これは、ドイツ・ロマン派の作家ホフマンの短編小説を下敷きにしたオムニバス形式のオペラで、主人公はオリンピアという名の小柄な美しい娘に恋をする。しかし、彼女は自動人形だった...。[覚書1]

この年、総選挙でナチスが第一党になる。翌1933年、ヒットラーは謀略により独裁的権力を手中にし、ナチスをドイツの唯一政党とする。さらに、秘密国家警察(ゲシュタポ)編成。共産党弾圧。言論・思想統制と焚書...。

1933年 年末、ベルメールはナチスに抗議するため、国家にとって「有用な」仕事を一切行わないことを決意し、最初の人形制作に着手する。エンジニアの道を歩んでいた弟フリッツもこれに加わった。この時、ハンス・ベルメール31歳。

<人形: ベルリン−パリ>

最初の人形は木と金属の骨格を持っていた。また、腹部にパノラマ機構を内蔵し、臍の穴から体内を覗きながら左乳首のスイッチにより6枚のパノラマを切り替えて観るように設計されていた。

人形の制作にあたってベルメールが最も苦心したのが、脚部を胴体に接続する方法だった。制作の過程で、フリッツが球体関節の利用を思い付いた。

1934年、人形の写真10葉と短い序文を収めた"Die Puppe"(『人形』)を自費出版。これらの写真は、ソルボンヌ大学に留学したウルスラを通じてパリのシュルレアリストたちに紹介され、彼等の熱狂的な支持を得る。そして、12月5日、シュルレアリスム機関誌"Minotaure"(「ミノトール」)第6号に人形の写真18葉が掲載される(下図)。

「ミノトール」掲載写真
「ミノトール」第6号に掲載された人形写真 (Ref.1 p.39)

1935年 2月、パリに滞在しアンドレ・ブルトン、ポール・エリュアールをはじめとするシュルレアリスト・グループと交流する。2月13日から開催されたシュルレアリスム・グループの絵画展(カトル・シュマン画廊)にデッサンを出品。
 ベルメールの人形から想を得たポール・エリュアールの掌編「アップリケ」が、ベルメールとマン・レイの写真と共に「ミノトール」誌第7号に掲載される(写真に写っている人形はロッテ・プリッツェル作のもの)。

3月、ベルリンに戻る。ロッテ・プリッツェルとともに訪れたカイザー・フリードリヒ美術館で、デューラー派の作とされる一対の木製の関節人形を発見する。ベルメールがとりわけ注目したのは、これらの関節人形が持つ腹部の球体関節だった。これを参考にして、弟フリッツとともに、球体関節を全面的に採用した二体目の人形の制作に取りかかる。

この年の秋、二体目の人形("Second Doll")が完成し、その写真を撮影。その内の何枚かをパリに送る。これに強い関心を示したのがエリュアールであった。

(1935年から1938年にかけてパリのアンリ・パリゾが送って寄こしたサド、ロートレアモン、ランボー、ジャリ、ルッセル、フロイト、ルイス・キャロルなどの著作に触れている。)

1936年 5月、パリのシャルル・ラットン画廊で開催された「オブジェによるシュルレアリスム」展に人形の腕とグラス・アイを組み合わせたオブジェを出展。

6月1日、ロベール・ヴァランセの訳による『人形』仏語版"La Poupée"をGLMより刊行。

1937年、オブジェ「恩寵の状態にある機関銃」(「恩寵に浴した機関銃」)を制作。

この年の7月19日、「退廃美術展」がミュンヘンで開幕。ドイツ各地の美術館から没収された夥しい数の近代美術作品が、ナチスによって退廃美術の烙印を捺され、公衆の目に晒された。

一方、日本では、瀧口修造と山中散生とがエリュアールらの協力を得て企画した「海外超現実主義作品展」が開催。6月9日より東京、京都、大阪、名古屋の4都市を巡回した。ここでベルメールの素描と写真が紹介された。また、この展覧会の出品作品の主なものを収録した"ALUBUM SURRÉALISTE"(「みづゑ」臨時増刊号)に人形の写真とデッサンが掲載された。

1938年 2月、妻マルガレーテが結核で死去。そして春、ナチスの脅威を避けてベルリンからパリに移る。ベルメールがベルリンから持ってきたのは、人形の部品と僅かな身の回り品のみであった。

パリでは、ポール・エリュアール、ロベール・ヴァランセ、アンリ・パリゾ、アンドレ・ブルトンら旧知のシュルレアリストたちに暖かく迎えられ、また、マックス・エルンスト、マン・レイ、ジーン・アルプ、マルセル・デュシャン、そしてイブ・タンギーらと新たな親交を結んだ。ただ、この頃、シュルレアリスト・グループは大きく揺れ動いていた。1938年9月、ブルトンとエリュアールが決別。エリュアールとユニェは除名。エルンストは、「エリュアールの詩を否定せよ」というブルトンの要求を拒否してグループから離れる。

この年、第二の写真集のための「序文」執筆。ポール・エリュアールとの共同作業。

1939年、雑誌"Messages"(「メッサージュ」)第2号別冊としてポール・エリュアールの詩「あいまい遊戯・人形」(「人形のとりとめのないゲーム」)がベルメールの2葉の写真を添えて掲載される。また、3月、詩人ジョルジュ・ユニェと共同制作した詩画集"Oeillades ciselées en branches"(『枝状に刻みこまれた流し目』)がジャンヌ・ビュッシェより刊行される。この本に収録されたヘリオグラヴュール等による図版約25点は、ベルメールが病床のマルガレーテを見舞う際に持っていって見せたデッサンをもとにしている。

第二の写真集"Les jeux de la Poupée"(『人形の遊戯』)をカイエ・ダール社から出版すべく準備を進めていたが、戦争の勃発によりキャンセルされた。(日本の山中散生は、この写真集の刊行案内状を入手し、「みづゑ」417号(1939.9.3)で紹介している。)
※市川政憲(編)の「シュルレアリスム年表」(東京国立近代美術館発行 「シュルレアリスム展」図録, 1975)では、1937年の出版物として「人形のあそび」(カイエ・リーブル版)がリストアップされている。

<戦争: 南仏>

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵入。第二次世界大戦が勃発する。ドイツ国籍を有するベルメールは敵国人として南仏のレ・ミル収容所に抑留される。そこでは煉瓦の製造が行われていた。煉瓦に囲まれての生活は7ヶ月に及んだ。この経験は後のベルメールの制作に大きな影響を及ぼすことになる。

また、収容所内で、マックス・エルンストとフェルディナンド・シュプリンガーに再会。アートマーケットにおける彼等の価値に目を付けた将校は、彼等に作品制作を勧めた。抑留期間中、ベルメールはとりわけエルンストから大きな刺激を受けることになる。(エルンストは、エリュアールの尽力により、この年のクリスマスに釈放された。しかし、エリュアールは、ベルメールがエルンストと同じ所にいることを知らなかった。エルンストは、この後、ゲシュタポによる逮捕を含む多くの困難を切り抜けてニューヨークに亡命する事に成功した。)

1940年 4月、外国人労働連盟の一員として召集され、プロヴァンスでフランス軍将校の肖像画家の職を得たが、ドイツ軍のフランス侵攻(5月10日)を避けてカストルに逃れる。さらに、マルセイユからアメリカに脱出しようと試みたが失敗。1941年、カストルに戻る。しかし当時、既にフランスはドイツに降伏し(1940年6月)、南フランスはヴィシー政府の支配下にあった。

1942年、身の安全のためにフランス人女性マルセル・セリーヌ・シュテールと再婚。しかし、この結婚は完全な失敗だった。ベルメールの回想によると、彼女は以前から「叔父」と呼ぶ男と同居していたが、結婚後、その男が本当の恋人であることをベルメールに明かした。さらに、ベルメールがユダヤ人であると偽証して、彼を窮地に陥れた。

1943年、双子の娘ドリアンヌ(ドリアーヌ)とベアトリス誕生。ベルメールは、とりわけドリアンヌを熱愛した。

1944年、妻と別居(離婚届の受理は1946年)。翌年には完全に離別。双子の娘と生き別れになる。彼がドリアンヌに再会できたのは、22年後の1967年である。

ベルメールは再び「放浪者」となる。ジャン・ブラン、ジョー・プスケ(詩人)、ヘルタ・ハウスマンらと知り合う。カストルに住む友人フックス一家のレジスタンス活動に協力。  <8月、連合軍の南フランス上陸、パリ解放。>  10月から11月、友人らの協力を得て、トゥールーズのトランタン書店にて初の個展を開く。

1945年 5月、ベルリン陥落。同月8日、ドイツが無条件降伏。9月、ジョルジュ・バタイユ『眼球譚』のための挿画を依頼される。

MAP

<戦後: 南仏−パリ>

1946年、夏にパリに滞在。『眼球譚』挿画に関連した写真を撮影。ブルガリア出身の詩人ノラ・ミトラニと出会う。(彼女とベルメールは、1947年から48年にかけてトゥールーズで同棲。二人の関係は1950年に終わった。)

8月、戦争中連絡が途絶していたベルリンの家族の消息がわかる。父は1941年に死去。母とウルスラは健在。弟はロシアの捕虜収容所にいた。

1947年、3月から4月にかけての4週間、パリで初めての個展(ゲイ・リュサック街ギャルリー・デュ・リュクサンブール)。6月、パリのマーグ画廊で開かれた「国際シュルレアリスム展」に参加。

7月、ジョルジュ・バタイユ"Histoire de l'oeil"(『眼球譚』)刊行。(改訂版。なお、最初の出版は1928年で、アンドレ・マッソンが挿画を担当している。)。ベルメールの銅版画6点を収録。ベルメールはこれらを1946年から1947年にかけて制作した。

1949年、南仏を離れパリに戻る。11月"Les jeux de la Poupée"『人形の遊戯』、プルミエールより刊行。"Second Doll"の手彩色写真15葉と6点の絵、ベルメール自身の序文、およびポール・エリュアールの詩「あいまい遊戯・人形」が収録された。

1950年、画集(『リーブル・コレクティフ』)をパリで出版。ノラ・ミトラニの未完のベルメール論("Rose au coeur violet")の断片やマンディアルグの小文などが収録された。

1953年 秋、戦後初めてベルリンを訪れ、母親と9ヶ月一緒に過ごす。この間、ルドルフ・シュプリンガー画廊で個展。これは母国での最初の個展であった。そして、その会場で小説家ウニカ・チュルンと出会う。彼女はその時、37歳であった。翌年、彼等はパリで同棲生活を始める。

1954年 ウニカ・チュルンのアナグラム詩集"HEXEN TEXTE"(『魔女文書』)、ルドルフ・シュプリンガー画廊より刊行。ベルメールが後書きをよせている。

1955年、パリのジャン=ジャック・ポヴェール書店にて肖像画の個展。

1957年"L'Anatomie de l'image"(『イマージュの解剖学』)、テラン・ヴァグ書店より刊行。

この年、ウニカ・チュルンの精神状態が不安定になり、入院。その後、入退院を繰り返す。

1958年、ウニカ・チュルンをモデルとした一連の緊縛写真を撮影。そのうちの一枚が、"Le Surréalisme, Même"(「シュルレアリスム・メーム」誌)第4号の表紙の制作に使用された。(このシリーズが初めて本格的に公開されたのは、1983年12月の「ベルメール写真回顧展」においてである。)

ジョイス・マンスール"Jules César"(『ジュール・セザール』)刊行。(銅版画5点。制作は1955年。)[刊行年を1956年とする年譜もある。少なくとも普及版(表紙がベルメール作品)の刊行年は1956年である。]

ウィリアム&ノーマ・コプレー財団賞を受賞する。

1959年、ベルリンで母親の死を看取る(12月22日)。

1960年、前年(1959年)の12月からパリで開催された「シュルレアリスム国際展」(ダニエル・コルディエ画廊)に参加。ベルメールは人形作品(宙吊りにされた人形)を出品するとともに、ゾンネンシュターンの作品を紹介した。

ニューヨークのダーシー画廊で開催された"Surrealist Intrusion in the Enchanter's Domain"展に出展。

1961年"à Sade"(『サドに』)刊行。(銅版画10点。)

ウィリアム&ノーマ・コプレー財団によるベルメール展。

1962年、既刊の3冊の著作(『人形』、『人形の遊戯』、『イマージュの解剖学』)のドイツ語版を纏めて集録した""Die Puppe" ("Die Puppe 1. Die Puppe 2. Die Spiele der Puppe 3. Die Anatomie des Bildes.")をゲルハルト書店より2000部限定で刊行。

1965年、ジョルジュ・バタイユ"Madame Edwarda"(『マダム・エドワルダ』)、ジョルジュ・ヴィザ書店より刊行。(銅版画12点。制作は1955年。)

1966年、ドゥノエルよりデッサン集を刊行。

1967年"Mode d'emploi"(『使用法』)、ジョルジュ・ヴィザ書店より刊行。(銅版画7点。本来これらの銅版画は、ピエール・ド・マンディアルグの『閉ざされた城の中で語る英吉利人』のために1953年から1954年にかけて制作されたもの。)

ウニカ・チュルン"Oracles et spectacles"(『神託とスペクタクル』)刊行。

ドリアンヌとの22年振りの再会。

1968年"Petit Traité de morale"(『道徳小論』)、ジョルジュ・ヴィザ書店より刊行。(銅版画10点。)

1969年、ハインリヒ・フォン・クライスト"Les Marionnettes"(『マリオネット』)刊行。(銅版画11点。)

9月、ドリアンヌの夫に招待されてコルマールに滞在し、1週間彼等の家族と共に過ごす。そこで40年振りにグリューネヴァルトの祭壇画を見たベルメールは、感動のあまり祭壇画の前で涙を流して跪いた。 パリに戻ってすぐに、脳卒中の発作を起こし入院。命はとりとめたものの、半身不随となる。

1970年 10月17日、ウニカ・チュルン、ベルメールのアパートの窓から投身自殺。(10月19日、埋葬。)
(※死亡日を10月19日とする文献もある)

1971年 11月、フランス国立現代美術センターで大規模な回顧展が開催される。

1975年 2月23日、死去。72歳。彼の遺言に従い、ペール・ラシェーズ墓地のウニカ・チュルンの墓に埋葬された。
(※死亡日を2月24日とする文献もある)


参考文献

  1. Peter Webb with Robert Short: "HANS BELLMER", (Quartet Books, 1985)

  2. "UNICA ZÜRN et HANS BELLMER", (Le Réservoir Des Sens, 1992)

  3. 「ハンス・ベルメール」 (Web Site)
    http://www.mmjp.or.jp/art-u/contents/surre/bellmer/bellmerj.html
    (Top Page: 「アート・遊」 http://www.mmjp.or.jp/art-u/index.html)

  4. 「HANS BELLMER」 (Web Site)
    http://www.ai.wakwak.com/~imustak/gallery/bellmer.htm
    (Top Page: 「IMUSTAK CACOPHONOUS SOUND SYSTEM」 http://www.ai.wakwak.com/~imustak/imustak.htm


2005年4月9日更新 (2002年1月14日公開)
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